さくりと草を踏みしめて去っていく白澤の気配を探りながら、手の中で鳴り響くそれに目を落とす。 照らされた液晶画面に先ほどまで焦がれて仕方がなかった名前を確認すると、自ずとゆるんでいく口元に気恥ずかしくなりつつ受話口を耳にあてた。 「もしもし……鬼灯さんですか?」 「ええ。随分出るのが遅かったようですが、タイミングが悪かったでしょうか?」 「い、いえ、そんなことないです!ちょうど私もかけようか迷っていたところで…」 「……そうですか」 なまえの科白にほのかにやわらいだ声色を聞き届け、きゅっと胸が締め付けられる。 ほんのささいな言葉を交わすだけでもいい、それが電子に乗せた声でも、たとえどれだけ離れていようとも鬼灯を傍で感じ取りたかった。 そう強く想ってしまうほどに、自分でも気がつかないうちに彼を求めていたと知り頬が熱く火照っていく。 思えば鬼灯と長い間離れたことはない。 たった数日間のことなのにまるで心の底部をなくしてしまったようだ。そこにいくら感情が芽生えようと、留めておくための器がなければたちどころにこぼれ落ちてしまう。 今更ながら自覚した身体の一部が奪われてしまったような感覚に戸惑いつつ、口を開く。 「あの、どうして電話を…?何かご用ですか?」 「用がなければかけてはいけないのですか」 「そそんなことはないですけど……!」 「…どうしているかと思いまして」 「え?」 「ちゃんとやれているんですか?なまえのことですからまた執拗に怯えているのではないですか?」 「大丈夫ですよ!桃太郎さんも白澤さんも、よくして下さってますし」 「……ならいいです」 乾ききった砂に吸い込まれていく慈雨のように、たちまちなまえの心へ染み渡る鬼灯の言葉。優しく、時には意地悪く鼓膜を揺さぶるそれに浸りたくて、そっとまぶたを伏せた。 暫く近況報告のように取り留めもない話を続ける。ささやかな鬼灯との時を噛みしめるように何度も頷き言葉を交わしたあと、心地の良い沈黙がおりた。 ボタンひとつでたやすく断ち切られる脆い繋がりに縋るように、ふたりは意識のすべてを電波の向こう側へと向けていた。 「……なまえ」 「はい」 「寒いです」 「え?」 「貴女が隣にいないとどうにも肌寒いんです。調子も出ないような気がします」 「私も、です…私も鬼灯さんが側にいないのは…」 「………」 八大地獄は十分あたたかい筈だけれど、きっと鬼灯の言うそれが意味するところは違う。 心だとか、精神だとか。言い表すには難しい内的なところで感じ取る"冷たさ"にはなまえも覚えがあった。 こんなにも他人を恋しく想ったことは初めてだ。彼のいない日々は胸にぽっかりと穴を空けていき、指先からじわじわと熱を奪っていく。 もし仮に鬼灯と道を違える未来があったとして、なまえはどうなってしまうのだろう。たった数日でこんな想いに苛まれるのに、これ以上の苦痛が待っているというのだろうか。 想像しただけでえぐられたように疼く胸に手を当て、なまえは苦しげに吐息した。 「どうしました?」 「…鬼灯さん。私鬼灯さんの…皆の傍にいたいんです」 「…ええ、それで?」 「でもこの気持ちだけで将来を決めていいのかなって……。もっと視野を広げた方がいいんでしょうか」 「少し様子がおかしいと思ったら、またうじうじと悩んでいたんですか」 「う、うじうじって……」 気遣わしげに問いかけられてなまえはゆっくりと唇をほどく。彼女を思い悩ませていたものを知った鬼灯に呆れのまじった声色でなじられると、彼との日常が思い起こされた。 それにせつなく声をあげる胸を抱えたまま、やさしくすら感じられる鬼灯の言葉に耳を傾ける。 「誰に何を言われたか知りませんが、皆きっかけはささいなことだと思いますよ。進む道の途中で見つかるものもあるでしょう」 「それは志とか、意義とかですか?」 「そんな大層なものでなくとも単純に地獄のため…誰かのために尽力したい、とかでもいいんですよ。難しく考えることはありません、なまえの将来はなまえが決めればいいんです。他人ではなく、貴女の気持ちが大切なんですから」 「……何だか鬼灯さん、先生みたいですね」 「これでも長く地獄にいますからね」 先人のような物言いに、彼も迷う時期があったのだろうかと思いを馳せる。鬼灯が何かを躊躇ったり惑ったりする様子が想像できなくて首を傾げつつ、なまえは心の中でくすぶっていた火種が鎮まっていくのを感じた。 なまえの想い、それはひとつしかない。 「私、鬼灯さんを支えられるような獄卒になりたいです」 「なまえ」 「これまでいっぱい助けられて来たから、今度は私が支えたいんです。そのために頑張りたいんです」 「…………」 暫く無言が続き、鬼灯の返答がないことに不安が立ちこめる。 なまえの体温がうつってしまった携帯をきゅっと握り、やはり軽率だっただろうかと視線を落とした時、彼の唇から吐き出された息が耳をくすぐった。 こくりと喉を鳴らし、なまえはいささか緊張した面もちで鬼灯の反応をうかがう。 「獄卒の仕事は甘くないですよ」 「わかってます、鬼灯さんやお香さんたちを近くで見てきたんですから」 「…そうでしたね。ではなまえが戻ってきた時は、今まで以上に厳しくいきますからそのつもりで」 「うっ………はい、よろしくお願いします!」 低くひそめられた声色に戦慄したなまえは鬼灯の目に触れられないことはわかりつつもぱっと頭を下げてしまう。 そんな様子が想像に難くなかったのか、くつりと喉を鳴らした鬼灯は再び口を開く。 「あと1週間か10日ほどそちらに居ることになると思いますが平気ですか?」 「はい、大丈夫ですよ。桃源郷にも慣れてきたところです」 「…案外私の方が参っているのかもしれませんね」 「鬼灯さん?」 間を空けずに答えたなまえに顔をしかめ、ひとりごちた言葉を肯定するように胸のあたりが軋む。 なまえも平然としている訳ではないようだが、鬼灯は予想以上に自身を蝕む心情を認めつつあった。 寂寞のようでもあり、焦燥にも似た感情。 なまえの鈴を転がしたような心良い声を耳に入れた途端霧散していったあれは、恐らくこの通話を終えると共にまた姿を現すのだろうと考え、携帯端末を握る手に力が入る。 「いえ、何でもありません。……ああそれと、アレに妙な真似されていませんか」 「え………」 「…………なまえ?」 「さっされてませんよ?白澤さん良い方ですし」 「………………………」 「そうですか」 「はい」 なまえにとってはとてつもなく長く思えた静寂のあと、別段怒るでもなく彼を嫌悪するでもなく、平静な科白を返した鬼灯にほっと胸をなで下ろす。 先ほどのことは夢でも見ていたように今では思う。白澤と懇ろな間柄にある女性は山ほどいるだろう。そんな彼がなまえに手を出そうなどと考える筈もないし、でなければ一時の気の迷いか何かだ。 なまえは強引にそう結論づけると、しじまの帳がおりたように静かになった受話口の向こうに意識を戻す。 「鬼灯さん?」 「…そろそろ夜も更けてきましたし、切りますね」 「あ……はい。あの、私が言うのもおかしいですけど…無理しないで下さいね」 「それは約束出来ません。多少無理をしてでも貴女は必ず取り戻します」 とくん、とどこかあまやかに胸が高鳴る。 強い意志のこもった声で宣言されてじわっと頬が熱くなっていくのを感じながら、苦し紛れに言葉をつむいだ。 「…っ……こ、ここに置いていったの鬼灯さんなのに」 「ですから、私の手で取り返します」 「…はい、待ってますね」 「風邪をひかないように気をつけて下さいね、桃源郷といえど夜は冷えますから。ましてや腹を出して寝るなど」 「しませんからっ!鬼灯さんこそちゃんと寝て下さいね」 「まぁ必要最低限は」 「もう……。…また、電話してくれますか?」 「ええ、約束しますよ」 一刻にも満たないほどの語らいを名残惜しむように続いていく会話。なまえは別れを拒む本心をぐっと押し込めて一別の科白を口にする。 どこか力をなくしたように応える鬼灯の声を最後に通話を終えたそれは、寂しく沈黙した。 それでも心に灯るぬくもりと耳に残った鬼灯の声を追って、なまえはゆるやかに顔をほころばせる。彼と繋がった分だけ元気を失ったそれをねぎらうように撫でながら、彼女はゆっくりと立ち上がったのだった。 |