花盗人は何処 | ナノ




鬼灯や地獄で仲を深めた彼ら、両親と祖母。なまえを取り巻く人々と、自分自身のあり方を見つめ直す機会にもなった小さな旅行からの帰り道。
朧車に揺られつつ、業火の熱気を帯びた風にあおられた簾から時折のぞく景色を見やる。

鋭い岩肌が隆起した、剣山を思わせる山脈をいくつか越えればなまえをあたたかく迎えてくれる新しい"家"が待っている。

彼処を家と呼ぶのに慣れず、妙にくすぐったくて思わずゆるんでしまった頬をきゅっと引き締めて顔を上げる。
と、その長い脚であぐらを組んでいた鬼灯と瞳がからんだ。


「1人で何を笑っているんですか」
「み見られてたんですね……もうすぐ帰れるなぁって思ってたんです」
「…帰る、ですか。やっと貴女からその言葉が聞けましたね」
「……私言ったことありませんでしたか?」
「ありませんよ」


その言葉は、ようやくあの場所がなまえにとっての心の拠り所となったことを示していた。
鬼灯たちが居る彼処を、一時の仮宿としてではなく帰る場所として受け入れてくれたのだという事実が胸を揺さぶる。

彼女の心の移ろいやそこに宿す感情が何故か気にかかって仕方ないのは以前からだったが、胸をふるわせるこの想いは何だろうか。
単純に言えば感動したのだと鬼灯が気がついたのは、朧車がわずかな振動を立てて地上に降り立った時だった。


「ふう、やっと着きましたね!」
「なまえ」
「はい?」


数日離れていただけなのに随分と此処を恋しく想っていたようで、遠く果てまで続く塀や足に馴染む砂利の感覚になまえの胸はゆるやかに締め付けられた。
弾むように歩みを進めると、前を行く鬼灯から不意に声がかかる。

肩越しにこちらを振り返った彼はかすかに細めた瞳をこちらに寄せていて、その眼差しがあまりにも優しくなまえを撫でるものだから頬にはほのかな熱がたまっていく。
動揺を隠そうと、努めて平静を装いながらなまえは首を傾げた。


「どうしたんですか?」
「…おかえりなさい」
「……!」


彼の唇からやわらかくつむがれた言葉がなまえの胸にじわりと沁み入った。
久しく耳にしていなかったその音の羅列はずっと彼女が欲していたもので、誰かから与えられることを半ば諦めていた言葉。

胸を包むように広がっていったあたたかな音の余韻にあふれた涙がこぼれる前に、なまえは精一杯の笑顔を浮かべて鬼灯を見返した。


「ただいま……っ」
「ひどい顔ですね」
「だって嬉しかったから……」
「…嫌いじゃありませんけど」


眦の縁を濡らしながらくしゃっと笑んだなまえの表情はひどく不格好だったが、幸せに満たされたようなそれは鬼灯の心さえもあたためていくのだから不思議だ。
なまえの傍らでは不思議なことばかりが起こる。
先ほどの挨拶も、共に出かけていた鬼灯が口にするのは正しい使い方ではない筈だ。
しかし無邪気な幼子のように浮つく足取りを抑えようと背筋を伸ばす彼女に向けて、何故か無意識に呟いていた。

なまえがそれを求めているような気がしたからか、それとも鬼灯自身が彼女に言いたいと想ったのか、若しくはその両方か。
心の上澄みに浮かび上がろうとにじむ想いには目を瞑って、鬼灯はそっと彼女の隣に寄り添ったのだった。





「盂蘭盆祭りまでまだ時間がありますから、私は少し執務室に寄りますね」
「……お祭りがあるんですか?」
「おや、言ってませんでしたっけ」
「聞いてないです…!お祭り……お祭りかぁ」
「0時を過ぎれば大捕物も見られますよ」
「?」


鬼灯は祭りまで職務をこなすつもりらしく、その仕事中毒ぶりは相変わらず健在しているようだ。少しでも助けになればと、なまえも彼と共に閻魔殿への道をたどる。

それにしても盂蘭盆祭りというのはどのような祭りなのだろう。催し事にはとんと縁のないなまえには見当もつかなかった。
行き交う人々に賑わしい屋台や橙色の明かりが灯る通りを想像してひとりふわふわと浮き足立つ心を抱えていると、通りかかった裁判所に閻魔の姿を見つける。

何やら焦ったようにこちらを振り向いた彼の背後には浄玻璃の鏡が銀色の光を弾いていた。


「どうしたんですか、閻魔さん?」
「……ああ、やはり。通りでなまえとよく接近する訳です」
「え…?」
「疑問に思いませんでした?転びそうになったり水を被ったり、宿で不備があったこと」
「それって現世でのことですか?……よく考えたらそうですね…」


なまえをねらったように降り注ぐ水やひと部屋しか取れていなかった宿、それらはすべて偶然が織り重なったものだと思っていたのだが、どうも違っていたようだ。
だとしたら鬼灯との触れ合いの中で妙にどきどきと胸が高鳴ったことも重なった肌の間でうまれた熱も、閻魔の仕業なのだろうか。

うん、とひとり納得するなまえをよそに鬼灯は人でも殺せそうな眼差しを閻魔に突き刺す。

彼がだらだらと冷や汗をにじませるその背後で銀色の縁をまたたかせる鏡、そして上手く隠しているつもりだろうが、雪化粧をしたような書類の山からのぞく一枚の紙切れ。
大方閻魔が面白がって鬼灯となまえを縁で結んだのだろうと見当をつけ、更に研ぎ澄ました視線で彼をぎろりと切りつけた。


「で、ずっと見ていたんですか」
「う、うん……悪いと思ってたんだけどつい」
「ではなまえの事情も知っていますね、説明の手間が省けました」
「………あれ、それだけ?」
「は?」
「い、いやなまえちゃんとくっつけようとしたこと、もっと怒るのかと思ったんだけど」


鉄拳はおろか金棒での数発は覚悟していたのだが、彼は怒りに燃える様相など微塵も見せず執務室へと足を向けた。
何のお咎めもなしに去っていく鬼灯に慌てたような閻魔の声が飛ぶ。後から何十倍にも返ってくるのではなどと想像して閻魔は青褪めるが、鬼灯にそんな気は更々ないようで。

目を丸めて瞬きをした彼に歩みを止めた鬼灯はちらりとなまえを見やって一言呟いた。


「まぁ、余計なお世話以外の何物でもありませんでしたが。退屈しませんでしたし」
「…………」
「私は少し仕事をします。なまえ、ぼうっとしてないで早く来なさい」
「は、はい!」
「大王もその溜まった書類の山片付けて下さい」


閻魔の呼び止める声が追いかけるが、鬼灯は素知らぬ顔をして執務室へと引っ込んでしまった。
慌てて彼の背を追うなまえを横目に、閻魔がまどかな瞳を見張らせながらを開く。


「これは縁結びの効果かな…?」
「?何ですか、閻魔さん」
「いや、何でもないよ、さー仕事仕事」


弛んだ頬を露わにしたまま、積み重なった書類に筆を入れ始める閻魔に首を傾げながら鬼灯の待つ執務室へと向かう。

またいつものように職務に勤しみ始める彼の隣に腰を下ろし、書類を読み込みつつなまえは眉を寄せた。状況についていけないまま鬼灯に連行されてしまったけれど、先ほどの札のようなものが現世でふたりを惹き合わせていたのだろうか。
心の端に引っかかるものを残したまま白紙の上を這いずる文字の羅列を目で追うものの、全く頭に入らない。

集中出来ずにいるなまえに視線をうつした鬼灯は手を止めないまま口を開いた。


「どうかしましたか?」
「い、いえ少し気になることが…現世でのいざこざって縁結び?の仕業なんですよね」
「ええ、あの札に名前を書かれた2人の仲を取り持とうと様々な神が力を奮うんです」
「………それって、感情にも作用するものなんでしょうか…?」
「感情、ですか?」


きょとんと目を丸めた鬼灯の表情が新鮮で、見入りながらこっくりと頷くと訝るように眉を上げた彼は首を横に振る。
どうやら神といえど人の心には干渉出来ないようだ。
それを踏まえると、あの胸の鼓動は神様の不思議な力で引き起こされたものではないということになる。

なまえは書類に目を落とすふりをして鬼灯を横目で盗み見た。
長い睫毛に縁取られたまぶたはゆるりとまたたいて、濡羽色の瞳がふるえる。その端麗な横顔に吸い込まれるように目を奪われてしまい、なまえはひとりかぶりを振った。

おぼろに熱を集めた頬に手を当てていると、鬼灯は小さく頭を傾ける。


「で、何故そんな質問を?」
「えっ?い、いえ………ちょっと、ど、ドキドキしたというか」
「……どきどき?」
「いえ!きっとアレです、動悸の神様の仕業です!」
「そんな神はいませんし、したんですか、ドキドキ」
「つ突っ込まないで下さいよ!変なこと聞いてすみませんでした…!」


どこか愉悦をふくみつつ頬杖をついてこちらを眺める鬼灯に耳まで朱に染め上げ、なまえは慌ててペンを取る。
気恥ずかしさや胸をくすぐる甘い感覚に翻弄され、混乱しきった彼女は自分が何を記しているかも定かでないまま必死に手を動かした。

一方で鬼灯は彼女の指先から動揺を表すようにみみずが這ったような字が生まれるのを一瞥し、なまえの肌を彩る朱に目をやる。
その頬に触れたなら自身よりもぬくい体温が指先に移るのだろう、と彼は思いを巡らせ、とくりと淡く反応を示した心臓にまぶたを伏せたのだった。


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