花盗人は何処 | ナノ




通りに連なる提灯が星のようにまたたいて、なまえの虹彩を鮮やかに彩る。眠らない夜の街は男女のにぎやかな声に満ちあふれ、鼓膜を姦しく揺さぶった。
その落ち着かない雰囲気から逃れようと、なまえは足早に通りを抜けていく。

日中よりいくらか冷えた夜風がなびき、鼻をくすぐる甘いにおいは別世界に迷い込んだように思えてなまえの頭は冷静さを取り戻していった。
意地を張ってわかり易いからかいに煽られ、勝手な行動に出てしまったと深く内省する。

なまえを年端もいかない娘と評した鬼灯は確かに的を射ていたようだ、と内心自嘲していると、未だに慣れない草履で走ったのがいけなかったのか、痛みが足を駆け抜ける。
じくじくと痛覚を刺すようなそれに責め立てられ歩みを止めると、不意に見知らぬ男性がなまえの前に立ちはだかった。


「あちょっとアンタ、ここの娘?手があいてるなら来てくれないか」
「えっ?」
「ここの店で宴会してるんだけど、遊女の数が足んなくてさ。頼むわ」
「いえ私は店の者では…!」
「ちょっと色気は足らねぇがなかなか可愛いし、アンタなら大丈夫」
「は、離してください!」


顔を赤らめたその人は随分酔いが回っているのか、なまえの言葉など聞く耳も持たずに彼女の細い手首を掴むと強引に肩を引き寄せ、連れ去るように歩いていく。
助けを呼ぼうと周囲を見回しても、客をあしらう麗しい女性や、彼女たちに自慢話をひけらかすのに夢中な男たちであふれ2人を気にかける者などいない。


抵抗もむなしく、彼が遊郭の入り口にかけられた唐紅色ののれんをくぐろうとしたその時だ。なまえの耳に間延びしたお気楽な声色が届いたのは。


「ちょっとそこの人、その娘は遊女でも芸者でもないから放してあげなよ」
「あ……」
「は?何だお前」
「何でもいいだろ、衆合地獄で怖〜い鬼神に呵責されたくなかったら彼女は諦めた方がいいよ」
「白澤さん!」


いくら凄んでも気のいい笑みを崩さない白澤にち、と舌を打った男は、なまえを押しやって次の獲物を探そうと往来へと消えていく。

ほっと息をついたなまえは妖しく居を構える妓楼を仰ぎ、もしも白澤に助けられなかったらと思考を巡らせてひとり震える。

最悪の場合を想像してしまったのか、足がすくんだようにその場を動かないなまえを見やり、頼りなく揺れる肩に白澤はそっと手を置いた。
そのままあやすようにゆるゆると肩口をさすられて、恐怖に包まれた心が彼の体温にほどけていくのを感じる。

ふっと息を抜いたなまえは気遣うような瞳をこちらに寄せる白澤へ頭を下げた。


「ありがとうございます、助かりました…」
「たまたま通りがかってよかったよ。でも何でこんなところにひとりでいるの?」
「あ、それは……その…」
「アイツと喧嘩でもした?」
「え」
「…見つかったみたいでよかったね、心を開けるひと」
「!」


いつもなまえの傍らで目を光らせている番犬の姿が見えないのはどうやら仲違いをしてしまったかららしい。
ばつが悪そうに口ごもるなまえも、親友とは毛色が違うかもしれないが心をさらけ出せる存在と出会えたようで白澤は心から喜ばしく思った。

それがあの天敵である常世の鬼神かと思うと釈然としない思いが湧き上がってくるが、彼はそれを飲み下すようにしてなまえをやわらかい眼差しで見つめる。


「ね、よかったらご飯でも食べに行かない?」
「ご飯…ですか?」
「ほらこの前は余計な奴がいたおかげであんまり話もできなかったしさ。僕、もっとなまえちゃんと仲良くなりたいなぁ」
「でも」
「ちゃんと寮まで送るから!だめ?」


ねだるような瞳で、下からすくいあげるように顔をのぞきこまれては断ることも憚られてこくんと頷いたなまえに、白澤は心底嬉しそうな声をあげた。
にこにこと朗らかに笑う彼につられるようにして笑みをこぼしてしまうと、白澤はまた一層きゅっと眦をやわらげてなまえを見つめる。

その柔すぎる視線がやけにくすぐったくて、こらえられずにふいと目をそらしてしまった。


「あ、恥ずかしくなっちゃった?可愛いなぁ」
「も、もう、そんなことを簡単に言っちゃうから軽いって思われるんですよ」
「あはは、ごめんごめん。っと、厄介な奴に見つかる前にそろそろ行きますか。おいしい店知ってるんだ、着いておいで」


白澤の思いがけない言葉にほんのりと頬が熱くなっていく。
女性と見れば誰にでも言っているようなこなれた言動だったけれど、如何せん耐性がないために率直なその科白はなまえの心を揺さぶっていった。

恥ずかしさをはぐらかすように悪態をつけば、軽く笑った白澤は先導するようになまえの手を取る。
ごく自然に重ねられた手のひらからじわりと他人のぬくもりが伝わって、その落ち着かない感覚に少し居心地が悪くなってしまう。


「あの…」
「ほらここだよ」


慣れない体温に戸惑いつつ、白澤にエスコートされるままに足を踏み入れた店はとある居酒屋だった。

がやがやと活気に満ちた店内と鼻をつくアルコールのにおいはなまえが初めて体験するものばかりで、気後れしたようにきょときょとと周囲を見回す彼女は警戒心を露わにした犬のようだ。

そんな彼女にくすりと笑みをもらした白澤は、御座敷になっている其処にあがり、なまえに手をさしのべた。


「おいで」
「え、えと、ここって居酒屋ですよね……?私お酒は…」
「大丈夫だよ甘酒もあるし、何よりこの店の料理はおいしいんだ」
「……」
「それに疲れたでしょ?」
「え?」
「足、さっきから引きずってるから気になってたんだ。我慢したら悪くなる一方だよ?ほら座って」


どうやら白澤はなまえの怪我を察し、あまり歩かなくても済む近場に位置する店を選んだようだ。
なまえはわずかに表情をゆるめ、彼の隣に腰をおろした。
心の機微に聡く優しい、女性にだらしのないひと。
だけど何故だかにくめなくて、柔和に笑む彼を見ているとこちらまで心がやわらいでいくから不思議だ。

徐々に塗り替えられていく白澤の印象に、なまえは注文を済ませて店員を見送る彼をそおっとうかがうように見上げる。
そんななまえに気がつきもの柔らかな視線を下ろした彼は、なぁに、と問うように小さく首を傾げた。


「えっと………あ、白澤さんに何かお礼をしようと思っていたんでした!」
「え?ああ、本のことなら気にしなくていいのに」
「いえ、そんな訳にはいきません。何がいいでしょう……」
「んー、お礼は身体で!って言いたいところだけど物騒なお目付け役がいるからなぁ……」


うーん、とふたりして悩んでいるところに、店員がほかほかと湯気の立ちのぼる料理を運んできた。

油にさっとくぐらせた揚げ出し豆腐や刺身、餃子など酒のつまみに適した食べ物が並ぶ中、一際目を引いたのは絵の具を落としたような朱色に染まる鍋だ。
ぐつぐつと煮立つそれに呆気にとられていると、喜々として箸を手にした白澤がその猟奇的な赤から具を救っていく。


「か、辛いものお好きなんですね……」
「うん、大好き!なまえちゃんも食べる?」
「いえ、得意ではないので遠慮しておきます…、あ」
「?どうしたの」
「お弁当でも作りましょうか?」
「え、なまえちゃんの手作り弁当!?本当に!?やった!」


彼の好きなものを詰めた弁当。辛いものが好みならばそれを中心に献立を考えて作れば良いのだ。
あまり手持ちがないなまえには白澤が欲しい物を買うことすら出来そうにないけれど、弁当くらいならば作れるだろう。それになまえの得意とする分野でお返しが出来るのならこんなに良いことはないと思案する。

その提案になまえの手を握り喜んでくれた彼に安堵していると、顔の横をひゅっと空を切って飛んでいった何か。
次いで鼓膜を揺さぶったのは白澤がどしゃりと畳の上にくずおれる音と、背筋を這いあがるような低い声音だった。


「なまえに何をしているのですか白豚さん」
「ひっ!ほ、鬼灯さん!?」
「やっと探し出したと思ったら……なまえも気安く手なんか握られてんじゃないですよ」
「ごごめんなさい…?」


突然戸口に姿を見せた鬼灯にまぶたをまたたかせ、テーブルを挟んだ向かい側で頬を腫らした白澤を捉える。

白澤の脇に転がった小さな石ころが彼を沈ませたのだと思うとどうしても恐怖がこみ上げてしまい、なまえはふるりと身を震わせた。するといち早く彼女の様子に勘付いた鬼灯はひとつ息をつき、なだめるようにその頭をそっと撫でる。

心地よい彼の仕草にふわっと表情をほころばせた彼女の横を、鬼灯は我が物顔で陣取った。
なまえは腰を落ち着けた彼の額にわずかに汗がにじんでいるのを認め、袂から手ぬぐいを取り出すとそこに優しく押し当てる。


「汗なんて珍しいですね」
「そりゃ探しましたからね」
「私を、ですか?」
「当然でしょう。1度閻魔寮に戻ったんですけど、部屋にいなかった時はさすがに少し焦りました」


そこからまた衆合地獄へととんぼ返りし、思い当たる店をしらみつぶしに当たっていったと言う鬼灯に何だかこそばゆさをふくんだ嬉しさが胸に広がった。
半面、なまえのためにそこまでしてくれた鬼灯をよそに、のんきに白澤と食事を囲っていた先刻のことを思うと申し訳なくて仕方がない。

罪悪感に押しつぶされそうになって身を縮こまらせたなまえは静かに口を開いた。


「すみません、そうとは知らずに私……」
「いえ、私も意地悪が過ぎたんですよ。どうやら貴女に食指を動かす者もいたようですし」
「…それ、もしかして僕のこと?間違いじゃないけど、もう一人いたぜ」
「は?」
「なまえちゃんをたちの悪いナンパから助けてあげたんだよ、僕がな」


ちらりと白澤を一瞥した鬼灯に気がついたのか、まだ痛むらしい頬を押さえて身を起こした彼は得意げにそう言った。
眉をひそめて確認するようになまえへと視線をうつした鬼灯におずおずと頷くと、ふっとため息をもらした彼は感心したように頬杖をついた。


「なるほど、変わった趣味の輩もいたもんですね」
「オマエもそうだろ」
「私は別に……」
「なまえちゃんの為に息切らして走り回ってたくせに何言ってんだか」
「…もう一度、今度は岩をぶつけて差し上げましょうか」


物騒な眼光をぎらりとひらめかせた鬼灯は呆けてこちらを見上げるなまえに気がつくと、きまりが悪そうに一旦目をそらした。

視線をふらっと泳がせた彼は縫いつけられたように離れないなまえの瞳を無理矢理剥がすように、つん、と彼女の額を指で突く。
されるがままに天井を仰いだなまえの顔は間が抜けていて、なかなか夢見心地から帰って来ないようだ。


「仮にそうだとしても部下…あるいは愛玩動物としてですから」
「私は鬼灯さんのペットじゃないんですけど……」
「うわ、オマエそんな嗜好あったのかよ……なまえちゃん、僕ならちゃんと女の子扱いしてあげるよ」


穏和な笑顔の中にいやらしいものをはらませてなまえを見つめる白澤の熱い瞳を目ざとく察した鬼灯は、淫靡なそれから彼女を守ろうと鋭い指先を繰り出した。
彼は、長い指に突き刺された目を手のひらで庇いのたうち回る神獣を見くだすように鼻を鳴らす。


「なっ、何すんだよ!!」
「下劣な眼差しからなまえを保護したまでですが?」
「オマエなあ…!」
「コレは放っておくとして、帰りますよ」
「え?は、はい……あの、鬼灯さん?」


立ち上がった鬼灯に倣って腰を上げると、彼はなまえに背を向け屈み込んだ。
まるで彼女がその広い背に乗るのを待つようにその体勢から動かない鬼灯にこてんと首を傾げれば、呆れ交じりに振り向いた彼が腰の後ろに回した手をひらりと揺らした。


「足、擦れていますね」
「あ…」
「それでは草履も履けないでしょう、早く乗りなさい」
「で、でも私重いですし!これくらい平気です!」


鬼灯の指摘通り鼻緒に擦れて皮下組織が露わになったそこはじわりと血がにじんでいる。
彼はなまえのささいな動作からそれを機敏に悟ったようだ。よく見ているというか、過保護だなあ、と白澤は酒を嚥下しながら2人を見守る。


一方で彼らのやり取りは続く。
裸足で歩くだけでも引きつるような痛みがずきずきと走るだろうに、意固地になって徒歩で帰ろうとするなまえに鬼灯はぴくりと片眉を持ち上げた。

しかし顔をしかめた鬼灯にいくら凄まれようと、これだけは譲れない。ただでさえ女性として見られていないという事実になまえの乙女心は浅い傷をいくつもつくったというのに、体重すらもおおっぴらにするなど以ての外だ。
重いなどと言われようものなら立ち直る自信はない。

嫌々をするように首を横に振るなまえに痺れを切らしたのか、鬼灯はその細い手首を力強く引いた。


「つべこべ言わずにおぶられろ!」
「いやです!わっ、やめて下さい!」
「痛い思いなどしたくないでしょう」
「ですけど…、」
「………大切なんですよ」
「……え?」


なまえは鬼灯の腕の中に閉じ込められるようにして抵抗を封じられても意思を曲げようとはしなかった。
流されやすい彼女が本心を包み隠さず向かって来てくれるのは嬉しいものだが、生憎鬼灯の心はなまえへの憂慮で満たされている。

逡巡するような間の後彼がつむいだ言葉は、今まで耳にしたことのないほどのやわらかい響きをはらんでいた。なまえの胸へ優しく届いたその音に彼女は虚を突かれたように目を丸くする。


「苦痛を感じることからなまえを遠ざけたいのです」
「鬼灯さ、」
「……と言えば大人しく従ってくれますか?」
「……………」


その慈しみにあふれた言の葉を追うように呟かれたそれになまえは力なく項垂れた。
脱力した彼女をこれ幸いと背に負った鬼灯に抗う気力も削がれたのか、なまえはされるがままになっている。
それでも気恥ずかしさはあるらしく、彼女はほんのりと頬を染め、握った拳で鬼灯のたくましい肩を弱々しく叩いてみせる。


「では私たちはこれで」
「はいはい、送り狼になるなよ」
「まさか、どこかの偶蹄類じゃないんですから」


最後まで口喧嘩を忘れない彼らに反応を示す余裕すらない。なまえはこちらに向かってひらひらと振られる白澤の手に鬼灯の背から細々と振り返すことで精一杯だった。


敷居をまたいで艶めく通りへと出た鬼灯の足取りに合わせてなまえの身体もゆらゆらと揺れる。
布越しにじんわりと伝わる彼のぬくもりに触れ、日だまりが注いだようなあたたかさが胸に沁みていった。

なまえはゆるみそうになる唇を隠すように鬼灯の肩へとうずめる。


「落っこちないように掴まってて下さいよ」
「………はい…」
「…漸く見つけたと思ったら怪我を負っている上に花街で言い寄られたなんて、貴女はいくつ私の肝をつぶせば気が済むんですか全く……」
「すみません…でも心配してくれて嬉しいです」
「拾ったからにはどんなに手のかかる犬であろうとも責任を持たなくてはいけませんからね」


湾曲したその言葉になまえはふわりと顔をほころばせた。

鬼灯と過ごす時間が増えていく中で、ひとつわかったことがある。
ひねくれた言い草で覆い隠されてはいるけれど、その節々には確かになまえへの思い遣りが秘められていること。

それを探り当てる度に、心が満ち足りていく。今も真綿に優しくくるまれて息も出来ないような幸福を感じ、なまえは自分の中でこの居場所が殊更大切なものになっていく感覚に身を委ねたのだった。


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