花盗人は何処 | ナノ




どこからか漂うのはまとわりつくような甘い香の馨り。女を彷彿とさせるそれと暗がりの窪みから聞こえる、鼻にかかるような艶めいた忍び笑いが耳を舐める。
なまえに向けられている訳ではないのに、ぞくりと背筋を這う恥美な感覚に意味もなく頬へ熱が集まっていった。

にらみ通り色気というものに耐性がないらしいなまえは桜色に染めた頬を携えて弱ったように鬼灯を見上げた。
鬼灯もこうなることに察しがついていたから渋い反応をしてしまったのだが、少々無垢すぎるなまえには良い薬なのかも知れないと思い直し、気が引けたように足をすくませる彼女の背に手を添えた。


「ほら彼処に獄卒がいるでしょう」
「は、はい」
「ああやって亡者を誘い、誘き出されたところを男の獄卒が呵責するのです」


暗闇にぼんやりと現れた妖しげな明かりの下、見目麗しい女獄卒が色情を感じさせる蠱惑的な仕草で男を誘っている。なまめかしく身体をくねらせる彼女になまえの方が気恥ずかしくなってしまい、目を逸らそうとするけれど背中に触れた鬼灯の手のひらがそれを許してくれそうにない。

なまえの視線の先では花の蜜に群がる羽虫のように見事に吸い寄せられた亡者が金棒をひっさげた獄卒に冷厳な呵責を受けている。
抵抗する亡者を何度も殴りつけ、血も涙もない無慈悲な責めたてにわずかに怯むがそれを見据えるように前を向き続けた。
その行動が意外だったのか冷静に拷問を見つめるなまえに鬼灯は軽く目を見張る。


「拷問は案外平気なんですね」
「平気……という訳ではないですけど、閻魔さんの裁判でそれ相応の罰を受けて当然と判断されたんですよね。でしたら止むを得ないことだと思いますし、怯えてばかりもいられないなと思って」
「……そうですか」


青く変色した肌や血に塗られた顔など、平和な現世には到底馴染みのないものの筈だというのに心を深部から煽るような恐怖を押し込めて気丈に振る舞うなまえは何とかこの地獄に順応しようと一途に尽力しているようだ。
ひたむきな思いを胸に前へ進もうと努める彼女に、鬼灯はどこか優しい色を映し出した瞳を寄せる。

視線に気がついたのか、なまえは亡者から鬼灯に目を移すとこてんと首を傾げた。


「何ですか?」
「いえ、なまえを見習って私も職務に励もうと思いまして」
「な、何言ってるんです、鬼灯さんがもっと頑張ったら倒れちゃいますよ!」
「鬼は頑丈に出来ているんですよ」
「過信はだめです!……私の母だって1度倒れました」


鬼灯の至極真面目な響きを持った言葉に慌てたように彼へ向き直ったなまえはぎゅっと拳を握り込んで説き伏せにかかる。
なまえとの約束を守り、以前より夜を明かす回数は減ったものの日々の激務に変わりはない。
鬼灯の冷涼な目元に薄らと影を落とす疲労を見て取ったなまえは、いつの日か同じ様に忙殺され、倒れた母を想う。

思い起こすのは冷たい電気信号に変換されて鼓膜を揺さぶった父の声。
病いなんてものには全く無縁だった母が床に臥したと知った時は生きた心地がしなかった。自身を支えてくれていた何かが音もなく崩れたような、あんな肝をつぶす思いはもう2度としたくない。

そう改めて痛感するほどに、なまえの中で鬼灯は肉親と同等の大切な存在になっていたことを思い知った。


「…どうか無茶はしないで下さい」


彼女の白いまぶたを際立たせるような涅色の長い睫毛がふるりと震える。
ささめくようなその科白は切実な想いをはらんで鬼灯の耳に届いた。それはなまえが鬼灯へ慈愛の情を確かに抱いているとわかる声音だった。
ふわりと心をくるむあたたかい感覚に何とも言えないむずがゆさを覚え、はぐらかすようになまえの頭をそっと撫でつける。


「わかりましたよ、無理はしません」
「……前もそう言いました」
「信じられませんか?」
「心配なだけです!」


他人に心を砕く余裕など彼女にはないだろうに、眉根を寄せてこちらを見上げるなまえは一心に鬼灯を思い遣っているようだ。
代わりに、自身を疎かにする癖をのぞかせる彼女のことは自分が見ておかなければという意を強めた鬼灯はもう1度なだめるようになまえの艶髪をさらりと梳く。

暫くそうしてお互いをやわらかく見交わしていた2人に、不意に降りかかったのはお香のたおやかな声だった。


「なまえちゃん、鬼灯様」
「あ、お香さん!」
「どう?衆合地獄は」
「皆さん魅力的で……、何だか落ち着きません…」


お香と顔を合わせたなまえは先ほどの情景を思い出したのか、ほんのりと目尻を色づかせ恐縮するように身体を縮こまらせた。

背を丸め小さくなってそろりとお香に視線をすべらせるその様は物陰からこちらをうかがう小動物のようだ。
妙な想像をしてしまい口の端から笑みをくすりともらしながら、彼女はもの柔らかな声色を心がけて言葉をつむいだ。


「ふふ、慣れれば大丈夫よォ。何ならなまえちゃんも誘惑してみる?」
「わ、私には無理です!亡者も誘われてなんてくれませんよ!」
「なまえに全面的に同意します」
「………」
「…あらあら」


お香のようにあふれるような色香など有してはいないので鬼灯の言うとおりだが、如何にも釈然としない想いがじわじわと胸に沁みて顔をしかめたなまえに反し、涼しい表情を崩さない彼を睨みあげる。

上目にこちらを見つめるなまえは艶やかさこそ感じないが、その瞳には確かな反抗心を認め、鬼灯の胸の奥に秘められた加虐性を上手にくすぐっていった。
揺れ動く鬼灯の胸中など露ほども知らないなまえは不満げに咥内へ空気をふくませる。


「自分でもわかってるんですから傷口を抉るようなこと言わないでくださいよ……それにもしかしたらってこともあります!」
「ないですね、万が一にも」
「ほ、鬼灯さんの意地悪!」
「色気のいの字も知らないような娘に食指を動かす輩がいたら教えてほしいくらいですよ」


ずけずけと無遠慮になまえが気にしている部分を踏み荒らす鬼灯に悔しさが生じても、的を射た彼の科白に反論することもできない。
彼女の中で膨らみ続けていた腹立ちを内包した風船は、穴が開いたように萎んでいったのだった。

しゅんと眉尻を下げるなまえの頭に力なく垂れた耳が生えているように思え、2人を見守っていたお香は彼女を元気づけようと努めて明るい声をあげた。


「わからないわよ、女はお化粧と衣装で化けるものだし、なまえちゃんはまだ若いから」
「…そうですか……?」
「化ける、ねぇ」
「…………」
「…………」
「え、ええっと、なまえちゃんは充分可愛らしいわよォ」
「いいんです、どうせ私なんかちんちくりんですから」
「おや、自虐ですか?」


場をとりなそうと助言するお香は兎に角、なまえの自虐すら愉しげに眺める鬼灯には腹立たしいものがある。
彼の虹彩に、愉悦にも似た光がゆらりとふるえるのを見てなまえは眉を吊り上げる。


「今日はありがとうございました、また明日!」
「あ、こら待ちなさい!」


再びふつふつと込み上げる怒りと捻くれの交じったような感情に突き動かされるようにして、彼らに向かって勢いよく頭を下げたなまえは幼い怒気をにじませた声で一言謝礼を口にした。
そのまま踵を返した彼女は一刻も早く刑場を後にしようと駆け出してしまう。鬼灯の言葉に耳を貸そうともせず遠のいていくなまえの華奢な背を見つめ、お香は弱ったように頬へ手を当てた。


「……ああごめんなさい、アタシのせいね」
「いえ、私もからかいすぎたんですよ。仕方ないですね……」
「追いかけたいけどアタシまだ仕事が残ってて……なまえちゃんのこと、よろしくねェ」


言動ひとつひとつに逐一じゃれつくような反応を返してくれるなまえをついからかいすぎてしまったと鬼灯は内省する。
しかし感情に任せて突発的な行動を起こすという、今までの彼女からは考えられなかった振る舞いに鬼灯はふっと目を眇める。良くも悪くもなまえが本心をさらけ出してくれた事実が喜ばしく思えたのだ。

人知れず表情をやわらげた彼を尻目に、お香はその金色の瞳へ不安を浮かび上がらせた。彼女も追いかけたいのは山々なのだが、如何せんやり残した職務がある。
もう薄紫の靄に紛れて見えなくなってしまったなまえの軌跡をたどろうと足早に去っていく鬼灯を、彼女は気を揉みながら見送ったのだった。


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