花盗人は何処 | ナノ




鼻腔にまとわりつくような生臭いにおい。眼前に広がる赤は風が吹く度にゆらりとさざめき、天霧る空からもれるかすかな光をおぼろげに反射する水面には乳白色の人骨が散りばめられている。
詰まる所なまえの恐怖心を煽るには充分すぎる情景が鼻の先に展開されていたのだ。その池の淵に立って、なまえは呆然としながら真紅を見つめる。


「血の池って、本当に血で出来てるんだ……」
「そうだよ、なまえ見るの初めて?」
「まぁ俺らも慣れるまでキツかったし、気持ちはわかるよ」


彼女は生々しいその光景を目にした途端顔を青褪めさせ、抵抗もなくどろりとした血の中に足をうずめる唐瓜たちを見守ることしか出来ずにいた。
これのどこが息抜きになるというのか。
やはり常人とは相違する感覚を持っているらしい鬼神を思い浮かべ、ため息をこぼす。しかし今朝血の池地獄へと向かうなまえにひらりと手を振って見送ってくれた彼には何か含んだものはなかったし、本当に気を休められると思っていたようだった。

そう考えるとこのまま池にも入らずに逃げてしまうのは申し訳ない気もするし、鬼灯の心遣いを無下にはしたくない。
なまえの肌の下にも流れる深い赤がどのようにしてこの窪溜まりを満たしたのかは知るところではないが、所々に白い頭蓋骨がぷかりと浮かんでいるのを見ると想像がつくような、あまり考えたくないような。


「なまえ大丈夫だよ、おいでよ」
「そうだな、別に危ないものもないし」
「う、うん」


指の先を折ってちょいちょい、と手招きをする茄子と、傍目から見ても怖がっているのがわかるなまえを何とか安心させようとする唐瓜。
友人たち2人に見守られながら、つま先を人体の温もりを持つそれにそろりと沈めた。指の隙間にさえ入り込む血液は泥濘に嵌まり込んだ感覚にも似ていて、足の先からぶるりと悪寒が這いあがる。

両足をおろしたまま石像のように固まって動けずにいるなまえを勇気づけたのは、緊張と怯えからすっかり冷えてしまった手に触れたあたたかい体温だった。
両の手をぎゅっと握ってくれるのは癖のついた髪を揺らす茄子だ。その空気をふくんだやわらかな白髪と優しく垂れる瞳を見ていると、彼がにじませる長閑な空気と重なって不思議と安心する。
眦をふわっと和らげたなまえを先導するように、茄子は彼女のやわく頼りない手を引いた。


「ありがとう、茄子くん」
「そんなに怖がらなくても大丈夫だよ、今は粋のいい亡者もいないし」
「い、粋のいいって」
「たまに池に引きずり込もうとしてくる奴とかいるもんな」
「ええっ」


暢気に笑いながら恐ろしいことを口にする2人は小柄とはいえ立派な獄卒だ。
彼らを見、血の池などものともしないだろう厳格な恩人を思い描いたその瞬間、友人たちを見習わなければと強く思ってしまったのは何故だろう。
鬼灯の存在が心にふわりと浮き立ち、なまえは穏やかな双眸に力を込めた。

意を決した彼女は茄子の手から離れ、渡されたブラシで骨をかき集めつつざぶざぶと紅玉色の流体を押しのけて進んでいく。
慣れない手つきながら俄然やる気を湧かせたなまえに唐瓜たちは顔を見合わせ、彼女に倣って手にした柄をせっせと動かしたのだった。


「ふう、大方終わったな」
「すぐ汚れちゃうんだろうけどね……」
「ねぇ、なまえって閻魔殿に来る前から鬼灯様と面識あったの?」


池からあがり、血の色に塗りかえられてしまった足を手ぬぐいで拭いていると不意に降りかかった問い。きょとんと目を丸くしたなまえの隣に腰をおろした茄子は顔をのぞきこむようにして首を傾けた。
灰白色の髪束がゆるりと風にたゆたうのを視界に捉えながら鬼灯を想う。

特殊な出会い方はしたが、茄子たちがなまえを知った時期と誤差もない。鬼灯とは以前から顔なじみだったような気がしていたけれど、まだ知り合ってそう経たないことを実感してまぶたをまたたかせた。
もう随分昔から彼が心に居座っているように思え、それに違和感すら感じない自身を認めて戸惑いを隠せない。


「…ううん、なかったよ」
「え、俺てっきり大王様繋がりで昔から仲良かったんだと思ってた!」
「……そんなに仲良く見えるかな?」
「だって何て言うか、お互いをよく見てるでしょ?」
「えっ」


例えばなまえが一体誰なのか、真相を確かめてこいと偵察に出された時のこと。
少し席を離れたなまえがまるでどこかへ消えてしまうのではないかと懸念するように、あの鋭い濡羽色が彼女を追っていたことを茄子は知っている。なまえの後ろ姿を映し出した瞳が安堵したように眇められたのを目にした彼はあの少女が鬼灯にとって大切な、好いひとなのだろうと思ったのだが、思惟していた気色とは少々違っていたようだ。

次に、気恥ずかしいのか頬をあえかに色づかせた彼女へ視線をうつす。
なまえの場合はもっとわかりやすい。早朝の食堂で鬼灯の姿を探してきょろきょろと忙しなく首を巡らせる彼女は主人を探す子犬のようで、彼を慕っているのがひしひしと伝わってくるのだ。
それらがどんな想いから芽吹いているものなのかは定かではないが、彼女たちがお互いを特別に見ているのは容易く知れた。


「鬼灯様は仕事をこなしながら頭のどっかでなまえのこと考えてる時、あると思うな〜」
「俺にはよくわかんねぇけど、茄子の言うとおりならなまえを心配してここにも来たりしてな」
「そんなまさか、鬼灯さんも忙しいんだから」


ひらひらと手を扇いだなまえと冗談めかした科白を口に出した唐瓜は互いを見交わして笑い合う。和やかな2人の間を割るように響いたのは、くしゅん、と堪えきれずにもれたようなくしゃみの音だった。
続いて鼓膜を揺らした聞き慣れた声色に、なまえたちは笑みを象ったままはたと動きを抑えられる。たどたどしく肩越しに振り返った先に見えた鬼灯は、すん、と鼻を啜ったあと袖に手を仕舞うように腕を組んだ。


「随分楽しそうですね」
「ほ鬼灯さん!どうしてここに…?」
「まさか本当になまえを心配して…」
「…………近くまで視察に来たのでついでに寄ったまでですが?」
「で、ですよね!」


平坦な声色で返された言葉を受けて気が抜けたような、少し落胆してしまったような胸中にひとり恥ずかしくなる。いくら心を傾けてくれているからといってなまえの面倒をばかり見ていられないのは当然だ。
何かとてつもない思い違いをしてしまった気がして、胸に込みあげる羞恥に頬が上気した。


そんななまえを見下ろしながら、鬼灯の頭の中では唐瓜がこぼした心配、という単語が反響していた。
なまえのいない隣席はもの寂しく鎮座しており、彼女のやわらかな声もわずかな衣擦れの音もしない執務室での書類仕事は落ち着かないものだった。身体は決められた手順を踏み無機質な紙の上を動くのに、心はどこかに置いて来てしまったような、可笑しな感覚。

気分転換も兼ねて足を向けた視察場所が、なまえのいる血の池地獄に程近い刑場だということに気がついたのは鼻につく血生臭いにおいを感じた時だ。
無意識の行動から、視察という体のいい口実に上塗りされたなまえへの想いが垣間見えた気がして、胸の中心がくすぐられたように思えた。それに目を瞑るべく目の前で頬を染めるなまえへ意識を寄せる。


「そんなに顔を赤らめてどうしたんですか?」
「い、いえ何でもないんです」
「熱でもあるのでは?」
「そんなことは…わ、あのっ……」


鬼灯の長く節くれだった指がなまえの絹糸を思わせる髪をさらりとかき分ける。筋の張った固い手のひらが額を覆い、そこに灯る熱を確かめるように肌と肌が触れ合った。
その冷静な瞳に憂うような色を染み出す鬼灯を見上げ、なまえの脳裏に茄子の科白が反芻する。

常に頭の端にでもなまえを置いてくれているのなら、本当にそうなら。こんなに嬉しいことはない。

やわらかな真綿にくるまれたような幸せがなまえの内を満たす。心に器があったのならば、とっくにその容れ物からあふれ出てしまうくらいのあたたかな感情にたまらず唇をほころばせた。

ほのかに頬を色づかせ、幸福がこぼれたような笑みを向けられた鬼灯はぱちりとまばたきを増やした。
なまえにつられて温くなっていく胸元を自覚しながら、彼女の体温より幾らか冷えた指先で柔い額のふちをなぞるように滑らせたあと、鬼灯は小さく首を傾げて顔色をうかがうように腰を屈める。


「急に笑ってどうしたのですか、血の池の掃除が辛かったんですか?」
「いいえ、茄子くんたちがいたから平気でした」
「そうですか、それは良かったです。………」
「鬼灯さん?」


臆病な彼女が友に支えられながらも踏み出した大きな一歩を、簡素な単語で心から祝福する。
なまえが拠り所と思える存在が増えるのはいいことだ。繋がった絆はなまえに良い影響を与えるだろうし、彼女は少しずつではあるが鬼灯に頼らずひとりで歩いていこうとしている。
決められた時間の中で成長しようとする少女にこちらも励まねばと思わせられるような力を貰った。

それは2人にとって喜ばしいことの筈なのに、鬼灯の隣で寄り添うようにしていたなまえがどこかへ行ってしまう気がしてきゅっと眉を寄せる。
胸の辺りに生じた裂け目からゆっくりと冷えていく内側。それは寂寞にも似た感情だ。
際限のある時間、それと相俟って釈然としない思いがじりじりと心の底辺にくすぶった。


「鬼灯さん、あの…どうしたんですか?」
「……どう、とは?」
「手…」
「!」


物思いに耽るように上の空だった鬼灯を仰ぐと、ふと握られた手のひら。彼の眉間のしわが深くなっていくにつれまるでなまえを繋ぎ止めるように力を込められる手に彼女はまぶたをまたたかせた。

困惑を内包したその声に我に返った鬼灯はぼんやりと自身の手に視線を落とし、縋るように重ねられたそれに軽く目を見開く。
無意識のうちになまえを求めていた事実に当惑と気まずさを覚えながらそっとやわらかな手を解放した。


「すみません、つい握っていたようです」
「い、いえ…あの、鬼灯さんこそ熱があるんじゃないですか?大丈夫ですか?」
「……心配には及びません」
「でも」
「そろそろ昼休憩の時間でしょう、昼食に遅れないように」
「は、はい」


ふい、となまえから目をそらしたままこちらを見ようともしない鬼灯に首を傾げる。
何か様子がおかしい。
迷子になった子供が途方に暮れるような、どうしようもない戸惑いが彼の背中から感じられたように思え、なまえは眉尻を下げた。
彼の心情が透けて見えでもしない限りなまえには心を砕くことくらいしか出来なくて、如何にもできないもどかしさを抱えながら懸念の言葉をつむぐ。

憂慮しこちらを見つめながら声をかけてくれるなまえの肩をいたわるような仕草で叩いた鬼灯は、なまえと、2人を見守る唐瓜たちを残してくるりと踵を返した。


「…どうしたのかな、鬼灯さん」
「さあ……でも、あんな鬼灯様初めて見たな」
「うん、あんな顔するんだね」


冷徹な補佐官が嫌悪だとか怒りだとか、そんな感情以外に表情筋を動かしたところを見たのは唐瓜たちにとって初めてのことだった。
純粋に驚愕する2人を尻目になまえは未だその眼差しに憂心を溶かして、小さくなっていく逆さ鬼灯の朱色を見つめたのだった。


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