花盗人は何処 | ナノ




ぱらり、
やわらかな指先が薄い紙を弾く音が静寂に塗られた室内に響く。活字の上を滑るなまえの瞳は至極真剣で、白いそれに綴られた文字を虹彩へと焼き付けるように追っていく。読書をしている最中のなまえが見せる類い稀なる集中力は滅多なことがない限り途切れることはないのだが。
はらり、と紙同士がこすれる乾いたささやきを響かせて、不意になまえの動きが止まった。軽く見開いたその目に映し出された一文を何度も頭の中で繰り返したなまえは、ふるふると唇をわななかせて彼女を安寧の中へとすくい上げてくれた恩人を思い浮かべたのだった。





今日は暑いですね、だとか昼食は何にしよう、だとか。
いつもならそんな他愛のない、けれどどこか大切に思える言葉たちが飛び交う執務室も、今日は何故か耳が痛むほどの沈黙とピアノ線がぴんと張りつめたような緊張に満ちていた。

ぴりぴりとした緊迫感を周囲に漂わせているのはなまえだ。
鬼灯が声でもかければ途端に身体をびくりと跳ね上がらせ、縮こまった声色で恐る恐るこちらをうかがいながら一言返事をくれるだけでまた職務に戻ってしまうため、会話なんて出来たものではない。

彼女は朝からこうだった。食堂でも目が合えばことごとく逸らされ、常なら鬼灯と同じテーブルにつくなまえは逃げるようにそそくさとお香のいる方へ向かっていってしまった。

それに苛立ちにも似たわだかまりを胸にくすぶらせながら、嫌でも2人きりになる執務室でならまともに言葉を交わすことくらいは出来るだろうと思っていたのだが、この有様だ。
相変わらず鬼灯を避けるような態度を取り続けるなまえに、お世辞にも丈夫だとは言えない彼の堪忍袋の緒が切れたようだ。
白澤を視界に入れた時と同等か、それ以上に機嫌を損ねたように表情を歪めた鬼灯は書類を書き進めているなまえの眼前までつかつかと足を進め、彼女が視線を落とす机へとその大きな手のひらを叩きつけた。


「いい加減にしてください、何なんですか貴女の態度は!」
「ひい!すすみません!」
「説明してください、昨日の今日で何があったんですか」
「すみませんすみません、謝りますから怒らないでくださいい!」
「だから何故…!……ああもういいです、さっさといつものなまえに戻ってください」


普段ならば健康そうなうすい桜色に染まっている頬は紙のように白く、頭をかばうように抱えるなまえは補食者から身を守るいたいけな小動物のようだ。壊れたように謝罪ばかりを口にしている彼女を見ていると血が上っていた頭もわずかばかり冷えてくる。

普段の冷静さを幾らか取り戻した鬼灯を腕の隙間からそろりと見上げたなまえは、ちっぽけな勇気を奮い立たせて口を開いた。


「すみません鬼灯様、これでも礼儀正しくしたつもりなんです…!」
「は?鬼灯……様?」
「き気に食わないですか!?様付けより殿とかの方がよかったですか……!」
「…なまえ、少し落ち着いてください。ほら深呼吸して」


初めて邂逅を果たしたあの時よりもよほど怯えた態度を取られて困惑する心を携えながら、鬼灯はなまえのあたたかな背に手を添えた。
ゆるゆるとそこを往復する優しい熱に彼女の心はなだらかになっていく。なまえは促されるままに深く息を吸い、焦燥や恐れごと吐き出すように取り込んだそれを解放した。


「落ち着きましたか?」
「は、はい…ありがとうございます」
「で、何を思ってあんな他人行儀な態度を取り続けていたんですか」


すう、はあ、と何度か深い呼吸を繰り返したあと、いつもの調子に戻ったように身体から力を抜いたなまえはそろりと鬼灯を上目に見つめた。

目だけでこちらを仰ぐなまえと漸くからんだ瞳。
おぼろにやわらげられた眦に心の柔い部分がくすぐられたような感覚を覚え、地に沈んでいた気分がひと息に浮上する。単純な心情の移りかわりに彼は内心で自嘲しつつ、口を開いたなまえに意識を戻した。


「ええと…本で、鬼灯様が」
「様なんてつけなくていいです、調子が狂う」
「は、はい!本で鬼灯さんが偉い方だと知ったんです、現世でいう官房長官、みたいな…」
「ああ、それで……言ってませんでしたっけ」
「聞いてませんよ!すっごくびっくりして焦ったんですから!」


切れ長の瞳をきょとんと丸くした鬼灯にぎゅっと拳を握って詰め寄ったなまえは先ほどとは打って変わって語調を強める。
空の色が刻々とうつろいゆくようにころころと表情を変化させるなまえには飽きを感じさせられることがない。薄々察しのついていたことだが、彼女のことを存外気に入っているらしい。
一線引かれたような態度に如何にもこうにも消化出来ない苛立ちを覚えるほどには。


「一応上の立場にはいますが、私自身に変わりはありませんから」
「で、でも…あの、やっぱり私茄子くんや新卒さんたちと同じ扱いで構いませんから、その」
「……私の元で働くのが気に入りませんか」
「気に入らないというか気が引けるというか……。
だって、鬼灯さんは皆の憧れだと思うんです。そんなひとの傍にどこの馬の骨ともわからない小娘がいると知られたら…」


実力の高い鬼灯の元で働きたいと思う鬼たちはごまんといるだろう。いくら閻魔の遠い親戚だということになっていても、不満を持つ者は少なからず出てくる。そんな小さな火種が蔓延っていたらいつ何時破裂するかわからない爆弾を抱えているようなものだ、それではいつか鬼灯に迷惑がかかる。

それは彼の隣に身を置くようになってから心のどこかに常にまとわりついていた懸念が改めて浮き彫りになったようだった。
重石を抱え込んだようにずんと苦しくなる胸には目を瞑って、繕ったような笑みを唇に貼り付けるなまえの瞳は憂慮と寂漠が綯い交ぜになったようにゆらゆらと震えていた。


「貴女、自分が生きた人間だということを忘れているんじゃないですか?理由なく特別扱いをしている訳ではないのですよ」
「わ、わかってます…」
「いいえ全く理解していません。地獄で生まれ育ってきた鬼たちにとってなまえは得体の知れない存在なのです、幽霊だって実態を解明出来ていないから人は恐怖するのでしょう。理不尽に怯えられ、自分に向けられる嫌悪に貴女は耐えられるのですか」


わざと冷たく響かせた言葉たちに力なくうなだれたなまえのつむじを見つめ、鬼灯はきゅっと眉を寄せる。
出来ることならなまえを冷淡な視線や恐怖に揺らぐ瞳にさらすことのないまま元の世界に帰したかった。
多少の反感を買うことになったとしてもそれと引き換えに彼女に平穏を与えられるのだと思えば毛ほども厭わないほどに、いつの間にか鬼灯の中でなまえの存在がひどく大切なものになっていたことを痛いほどに思い知る。

それが彼女が醸し出す庇護欲にかられるような雰囲気にほだされたからかなまえを見つけた責任を負うと決めたことが背景にあるからなのか、はたまた違う感情を拠り所としているのかは定かではないが、彼女が鬼灯の心を占める割合が大きくなっていることは明らかだった。


「納得しましたか?」
「……ごめんなさい、私鬼灯さんに守られてばかりですね」
「ここに来て間もないのですから当たり前でしょう」
「だったらもっと役に立てるように精一杯がんばりますね!雑用でも何でも仰ってください!」
「頼もしい限りですね」


ぐん、と胸を張ってみせたなまえは多少空元気のように見えるが、きちんと切り替えて前を向くことが出来るのは彼女の美点だ。
さっそく書類の作成に取り組むなまえの肩にかかった流れるような髪が、喬木からなだれ落ちるしずり雪のようにさらさらと滑り落ちていくのを何ともなしに見つめながらつぶやく。


「そういえば明日新卒総出で血の池地獄の掃除をする予定なんですけど、なまえもやりますか?」
「えっ」
「唐瓜さんたちとなら気兼ねなく接することが出来るでしょうし、たまには外の仕事もさせなくてはインターンという理由に疑念を持つ者も出てくると思いますから」
「い、いいんですか?」
「ええ、私も多少なら現場の仕事を知るのは大賛成です。息抜きにもなると思いますよ」


あの鉄臭い空気で胸をふくらませて果たして息抜きになるかどうかは疑問が残るところではあるが、そんなことを知る由もないなまえは木漏れ日が差したように表情を明るくさせて鬼灯を見上げる。

ほんわりと淡い笑みを浮かべた彼女に引っ張られるようにして口角をあえかに和ませた自身に気がついた鬼灯は、思わず手のひらでそこを覆い隠した。
唐突に口元を手の下へ匿った彼を不思議そうに見つめる彼女を一瞥し、鬼灯ははぐらかすようにその頭に手を置く。

優しさのにじむぬくもりをくれた鬼灯が何かに戸惑っているような気配がして、なまえはまぶたをまたたかせながら首を傾げたのだった。


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