うたかたの、 | ナノ




暫くの間お互いを見つめあっていたふたりだったが、唐突になまえの腹がきゅる、と空腹を訴えた。
空気の読めない自身の胃にがっくりと肩を落とすなまえと、きょとんと彼女を見上げる丁。
それに気恥ずかしそうなはにかみを浮かべたなまえがベッドから足をおろす。丁も真似をするように寝台からおりたことを確認すると、なまえは冷蔵庫の中身を脳裏に描きながら口を開いた。


「ご飯にしよっか!」
「私もいいのですか?」
「当たり前だよ、丁くんもこれからは家族みたいなものなんだから!」
「家族…」


寝食を共にし、一緒に暮らすのだからもう家族のようなものだ。

そう思って言ったなまえの言葉にきゅ、と眉をひそめた丁に首をかしげる。一瞬嫌がっているのかとも思ったけれど、そうは見えなかった。
どちらかといえば迷子になってしまった子どものような、途方にくれた戸惑いがにじむ表情。
固い床を見つめたまま動かない丁を導くように手を取ると、はっと我に返った彼は顔をあげる。


「こっちが居間だよ、着いてきて」
「はい」


手を引かれながら気を取り直したようになまえの後をちょこちょこと追う丁にふわりと微笑む。

ドアを開ける何気ない仕草ひとつにも興味津々といったように眺める丁は、まだ頼りない首をぐるりと巡らせて周りを観察している。好奇心をのぞかせてきょろきょろとその大きな瞳を動かし、時折なまえと目が合うとこてんと首をかしげるその様子はあどけない。

大人びて見える丁も、こうして見ると年相応だ。
かわいいな、なんて思いながら彼をたどり着いたリビングに敷かれたラグの上に座らせる。

目の前に鎮座する小さな床置きのテーブルやふわふわと足を受け止めるラグの観察を始める丁を他所に、なまえは台所に立った。壁にかけられた時計を見ると、もう昼も近くなってしまっている。
昼食も兼ねて多めに作ることにしよう。少し時間もかかりそうなので、行儀良く正座をする丁に声をかける。


「丁くんテレビとか見てていいよー」
「…てれび、ですか?」
「あ、そっかまだテレビもない時代から来たのか」


丁に近寄ったなまえは不思議そうに見つめられながらおもむろにリモコンを手にする。
丁の様子を気に掛けつつ電源ボタンを押せば、にぎやかな音と共にぱっと映像が流れ出す。唐突に騒ぎ出したテレビに驚いたのか、なまえのシャツの裾をぎゅっと掴んだ丁は目を丸くした。


「この黒い箱は何ですか?」
「テレビって言って、色んな映像で楽しませてくれるの」
「どんな仕組みなんですか?」
「んー…電波に乗って流れてきた映像や音を受け取って、この画面に映し出す……みたいな…?私もよくわかんないや」
「…不思議な物ですね」


箱の中に人が!とかありがちな反応を期待していたりしたのだけれど、冷静に物事を見極める性格らしい丁には叶わないことだった。

警戒を解いたのか、寄り添うようにしていたなまえの腕から離れた丁を少し寂しく思いながら立ち上がる。

台所に戻り、材料を取り出したなまえは魚や卵を焼いて野菜を茹で、完成した焼き魚に卵焼き、おひたしなどを盆に並べていく。白い豆腐やわかめなどが浮かぶ鍋をくつくつと煮立て、味噌を溶かしたところで火を止めた。

テレビもない過去から来たということは洋食には慣れていない筈だ。大分落ち着いたように見えるけれど、あまり表情の変わらない丁は感情が表に出ない性分なのかも知れない。
見たこともない物を出して生きる時代の差をまざまざと思い知らせてしまうのは酷な気がしたので、和食をつくることにしたのだ。


「出来たよー」
「ありがとうございます。……豪勢な食事ですね」
「え?そうでもないよ、あり合わせのものでつくったし」
「この時代はとても豊かなのですね」


目の前に並べられた一汁三菜の揃う食事を見て感心したように呟いた丁は、なまえがいただきます、と手を合わせたのを確認して同じようにぽてりとした紅葉の手のひらを重ねあわせ、箸を取る。
礼儀もしっかりした子だなぁと見つめていると、味噌汁のお椀に口をつけた丁が何食わぬ顔をしてぽつりと囁いた。


「過去から来たなんてこと、なぜすぐに信じられたのですか」
「え?嘘だったの?」
「いいえ、けれど事実だと証明はできません」


ほわりと湯気ののぼる味噌汁を眺めながら言葉を連ねる丁は、ずっと心に燻っていた質問をなまえにぶつけた。
そう、あまりにも簡単に丁の科白を信じてしまったなまえが、彼の目には少し異様に思えたのだ。

過去から来たなどと、普通の感覚を持っていれば到底信用するに値しない言葉だ。しかもそれが年端もいかない子どもが口にしているのだからなおのこと。
彼の胸中をぐるぐると廻る思いを察したなまえは箸を置き、隣に座る丁に向き直る。そのすっと射抜くようなひたむきな眼差しを、丁はただ見返した。


「丁くんのまっすぐな目が嘘を言っている風にも見えなかったんだよ。……それにもし嘘でも、帰りたくない事情があるわけでしょ?丁くんの気持ちを無視することはできないよ」
「……あなたいつか誰かにだまされますよ」
「え、こんな小さい子に詐欺にあう未来を心配される日がくるとは思わなかった!」


詐欺にはあう気でいるのか、と半ば呆れながらなまえを見つめた丁はふっと表情をやわらげる。
右も左も判然としないこの世界に放り出されて当惑する暇も与えられず、めまぐるしく変化する周囲に翻弄される丁に彼女は優しく包むような笑みを向けてくれる。明るく能天気としか言いようのないなまえの性質に救われたのも事実だ。彼女といると不思議と心が安らぐ。

言うならばそう、これはいるかも分からない神様から与えられた褒美のようなものだと、丁は考えた。
いつ覚めるか定かではない夢を気まぐれに授けられたのだ。ひどく曖昧なうたかたの淵に立っていることは容易に想像出来た。

元の世界に帰る時はきっと死ぬ時なのだろう。いつかこの場所から消えてしまう、それに恐怖はなかったけれどほんの少しだけ寂しいと思えたのは、出会って間もないなまえがいるからだろうか。
こんなにも短い間に誰かに何かの感情を抱くのも、胸の中心にほのかなぬくもりを灯すような感覚に陥ったのも初めてのことで。
丁は興味深気になまえを見つめていた。


「そうだ丁くん、服とか買いに行かなきゃね」
「いえ、これでも充分ですが…」
「だめだよサイズ合ってないし、それに弟とかに服買ってあげるの夢だったんだー。ね、私の小さな夢を叶えると思って!」
「はぁ、そこまでいうのなら」


ぽん、と手を打ったなまえを仰いだ丁に目線を合わせるように背を丸めながら懇願する。
押し切るような形になってしまったけれどどうにか了承を貰ったなまえは、にこにこと人好きのするような柔い笑顔を丁に向けた。
これからはふたりで歩いていくんだ。
そう思って、ゆるゆるとだらしなく崩れてしまう頬を引き締められないまま甘い卵焼きを口にふくんだのだった。



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