恋しぐれ | ナノ




記録課でひと仕事終え、執務室へと向かう道すがら。閻魔殿の敷地内に何やら足を止める獄卒たちをなまえは視界に捉えた。何かを遠巻きに眺めているような彼らに首を傾げながら近寄り、傍にいた鬼女たちに訊ねる。


「どうなさったんです?」
「なまえ様!いえ、彼処に裸の雪鬼が……」
「裸、の?」
「あ、見ては駄目です、目に毒ですよ!」


裸、という単語にぴしりと思考が停止する。なまえがあまり色を得意としないのは閻魔殿に務める獄卒には周知の事実となっているようだ。彼女たちは庇うように前に出てくれたのだが、一歩遅く。
小さな人垣の隙間から覗き見えたのは誰にも穢されたことのない新雪のように綺麗な白髪と、地獄の幽かな光の元でも透けるような肌の色。
雪から生まれたようなそのひととぱちりと瞳がからめば、彼はその場に響くような声をあげた。


「あーっ、アンタ!なまえ様!」
「春一さん?な何て格好してらっしゃるんですか!?」
「あ、何で目逸らすんだよぅ」
「ですからその格好が…!」


下着一枚でこちらへ歩み寄る彼に頬が火照るのを感じつつ、慌てて顔をうつむかせる。
相変わらず思考の読めない瞳をまたたかせながらなまえを見つめる春一は裸同然の身なりを気にかける様子もなく、むしろ彼女に避けられる理由も分からないようだ。春一はひょい、と屈むと下からすくい上げるようになまえの顔をのぞきこむ。顔面を両の手で覆い隠しても尚なぶるような視線を感じて、耳までじんわりとした熱が上ってしまった。


「おっ、耳まで赤いよぅ」
「愉しんでませんか!?」
「アンタ面白い反応するなあ」
「は春一さん、これは立派な猥褻罪ですよ…!」


自分が裸体を晒している訳ではないのにどうにも羞恥を感じてしまうらしい彼女は、未だに手のひらでぴったりと顔を隠したままだ。
これでは碌に話も出来ないと、春一は彼女に向かって手を伸ばしたのだが。

触れたのは絹のような柔肌ではなく雪化粧もしていない剥き出しの地肌。次いで身体に走る鈍い衝撃といつの間にか頬を冷やしていた馴染みのある温度に、彼はおう、と感嘆した。


「ひゃっこ〜い」
「は春一さん、今すごい音がしましたけどどうされたんですか?」
「少し力み過ぎました」
「あれ?その声は鬼灯さん」
「製氷皿ぶつけられただけで人って飛ぶんだな……」


どしゃり、と何かが地面に倒れ込む音をわずかに離れた場所で聞いたなまえが傍に居たはずの春一の気配を探す途中で耳に届いた呟き。心地よく鼓膜を揺らしたその声音に、なまえは無垢に首を傾げた。知らぬ間に事態は動いていたようで、鬼灯の他に唐瓜の声も聞き分けられる。

ほのかな闇の中、なまえが支えとする唯一のひとの声を頼りに手を泳がせつつ一歩進めば、いち早くきゅっと握られたそれ。重なった箇所からゆるりと溶け合う体温はいつもなまえにぬくもりを与えてくれる鬼灯のものだ。


「鬼灯さん、春一さんは…」
「もう服を着ているので目を開けても大丈夫ですよ」
「は、はい」
「隙があるから妙なのに絡まれるんですよ」
「妙なのって僕のことかよぅ」


研ぎたての刃のように鋭い眼差しと共に注意を受けてなまえは首をすくめる。妙なの、とは何かふくみのある表現だ。彼の苦々しくゆがめられた表情を見やりながら何の気なしに桃源郷で薬局を営む彼を想像する。
しかし鬼灯の言うことも最もだ。もっと気を引き締めなければ、と頭の中で反省会を開いていると、春一に向き直った鬼灯が小さく首を傾げる。


「ところで何故なまえにからんでいたんです?」
「え〜と…アレ何だっけ」
「春一さん?」


春一はなまえを見つけた際一目散に足を向けたのでてっきり何か所用でもあると思ったのだが、のんびりとした彼は目的を忘れてしまったようだ。
ゆったりと思考を巡らせる彼の独特なペースに呑み込まれそうになりつつ様子をうかがっていると、春一はおもむろに口を開いた。


「なまえ氏に取り入る 鬼灯氏を調べる 八大を調べる 独立する 繰り返します」
「えっ?」
「思いっきり言っちゃってるぞアイツ」
「オウ聞こえちゃった?」
「聞こえちゃいました……が、なまえに取り入るとはどういうことですか」


彼に課せられた任はきっと機密事項なのだろうが、大部分を声に出してしまっている。
ぶつぶつと呟かれるそれに聞き捨てならないとばかりに反応を示した鬼灯は問いつめるように一歩前へ踏み出した。ちょうどなまえを背に庇うような体勢に、とくん、とわずかに胸が鳴る。
嬉しそうに笑む彼女をよそに、春一は聞かれてしまったのなら仕方ないとあっさり口を割った。


「なまえ様って情に深いひとなんだろ?そこにつけ込めってじいさんが言ってたよう」
「ああ、そういうことですか」
「確かになまえさんは優しいけど…」
「せこいっていうかずる賢い手を打ってくるんだなぁ」
「……」


呆れたように眉をひそめる唐瓜たちは知らないかもしれないが、と鬼灯は口をつぐんだなまえを見下ろす。
彼女がいくら温厚篤実といっても職務に関して言えばその限りではないのだ。そう容易に心を傾けはしない。なまえは目の前のひとつではなくきちんと全体を見ることが出来るひとであり、もし春一が八寒の内情を漏らさずなまえの情に訴えかけたとして彼女が流される確率は無に等しい。
だがこうして目をつけられてしまったのも自身の落ち度だと考えたのか、眉を下げたなまえはちらりと鬼灯を見上げた。


「やっぱり私も鬼灯さんみたいに厳格さを身につけた方が…まずは眉間のしわから」
「それ褒められているんですか」
「はい!」


握り拳を作ってなまえのきゅっと寄せられた眉根を、鬼灯は不服そうにつつく。ほころびがあればすぐさま治そうとする真面目な気質は美点だが、なまえは変に入れ込んでしまうところがある。
何より、温厚な部分は彼女の強みなのだから無理をして矯正させることもない。彼女の真中に通った軸を鬼灯に近づける必要はないのだ。
なまえがなまえであるから閻魔を補佐する役目として、鬼灯の傍で寄り添い支える女性として何ものにも代え難い存在となるのだから。


「まあ、多少近づき難くなって虫が寄ってこなくなるかもしれませんが…なまえにしか出来ないこともあるでしょう」
「それは、…そうですけど……」
「それに少し心がけたって根っからのお人好しは治りませんよ」


虫とは何だろうと疑問を持ちつつ、彼女は鬼灯の科白にこくりと頷く。なまえはなまえらしく、と言いたいらしい。彼の言うとおり強引に変わろうとしたってすぐにぼろが出てしまうだろうし、そもそも自分に何が求められているかを思い出す。
鬼灯が補えないものを埋めるためになまえは第二補佐官として身を置いているのだ。自分にしか出来ないやり方で彼を支えていこう。そう改めて心に誓い、その濡羽色の虹彩と視線を交わせると、ひとつ頷いた茄子がゆったりとした口調で同意した。


「そうですよ、俺も今のなまえさんが好きだし」
「ふふ、ありがとうございます」
「お、オマエ鬼灯様の前でよく言えるな…」
「…そういえば茄子さん、貴方の報告書に不備があったので今日中に全部やり直してください」
「……ハイ」


茄子の科白に嬉しそうな笑みをやわらかに浮かべるなまえを鬼灯は一瞥する。胸によぎる喜びを素直に表現する彼女の笑顔に見守るような視線を送ったのも束の間、鬼灯は茄子にどこか棘のある声色で残業を言い渡したのだった。
一方、そんな戯れを眺めていた春一は暢気に鼻歌などうたっている。八寒地獄独立のための画策はもういいのだろうか。疑問を持った鬼灯が小さく首を傾げて口を開く。


「ところで全部バレちゃいましたけど、いいんですか」
「いいよう、よーするにじいさんの目的はカネよう、カネだろ?そーとしか思えねんだよう僕は」
「まァそうでしょうね」
「予算が足りないのなら正当な理由を申し出てくだされば融通もきかせますが、それがないということは…」


金をせしめようという魂胆だろうと考えてしまうのも仕方のないことだった。
独立するということは今まで八大の管理下にあった公費の用途をすべて八寒任せにしてしまうのだ。何か後ろめたいことを隠してしまってもこちらにはわからない。
弱ったように眉を下げるなまえの頭にぽん、と手を置いた鬼灯は何か考えでもあるのか、安堵を誘うようにゆるゆると髪を撫でつけてくれた。


「心配せずともいいですよ。こういうことは私に任せて下さい」
「鬼灯さん…」
「あと春一さん、なまえに付け入る隙は与えませんと皆さんにお伝え下さい」
「わかったよう」


いつもなまえを守ろうと動いてくれる鬼灯に胸がくすぐったくもあたたかくなるのを感じる。けれど、守られてばかりもいられない、せめて鬼灯の負担を減らせるよう動かなければ。
八寒からの任務はそっちのけで刑場の見学をしたいと言う春一に快く了承した鬼灯が火車を呼びつけるのを横目に、なまえはひとり気合いを入れ直すように拳を握った。


「じゃあ私が案内しますね!」
「…いいのかよう?」
「まァ火車さんの乗り方にはなまえも慣れてますし…それよりなまえ、興奮して身を乗り出さないようにして下さいよ」
「はい」
「火車さんの運転が荒い時はどこかに掴まっていること」
「はい」
「よろしい。ではいってらっしゃい」
「いってきます!」


傍らで様子見している唐瓜たちからしたらなまえを案じるがゆえの過保護ぶりもほほえましく思えてしまう。注意点を細々と口にする鬼灯もそれに生真面目に頷くなまえも、獄卒たちの間で実しやかに囁かれているおしどり夫婦という単語に説得力を持たせるには充分すぎる姿だった。
顔を見合わせた唐瓜と茄子が苦笑をこぼすのを尻目に、鬼灯は空へと旅立っていった火の車が星くずほどの大きさになるまで見つめていたのだった。


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