記録課での業務を終え裁判所へと向かう道すがら、見覚えのある背中を見つけてぱっと表情を明るくしたなまえは彼女目掛けて駆け出した。 「イワ姫さん!」 「アラなまえ」 「地獄に出向かれるなんて珍しいですね、どうしたんですか?」 「あー、あの…ほら今って2月じゃない?」 「はい、そうですね」 初月は瞬く間に過ぎ去り、すでに暦の上では梅見月だ。立春や節分など様々な行事がある。 特に節分は鬼を祓う意味もあるからか気に食わない獄卒たちもいるようで、この時季の閻魔殿の空気はほんの少し淀んだそれを含んでしまうのだ。 そんな内情を頭に巡らせてはみたものの、イワ姫がこの地獄に降り立つ理由に思い至らなくて首を傾げたなまえは彼女が後ろ手に隠している色鮮やかな包み紙を目に止めた。 そうだ、もうひとつあったじゃないか。日本中の女性だけでなく男性まで浮き足立たせてしまう日が。 バレンタインデーだ。 イワ姫が想いを寄せるひとがここにいるのだから、彼女が地獄まで赴くのも当然のこと。 そう考えて、胸の辺りがずしりと重たくなる。イワ姫と鬼灯が顔を合わせたあの日には言えなかった事実を、なまえはまだ伝えていなかったのだ。 貴女の想い人には恋人どころか妻がいるだ何て、その上それが自分の友人だったなどと酷なことはどうしても告げられなかった。 イワ姫を傷つけたくなかったし、それが原因で彼女との絆が壊れてしまったらと思うと心底怖かった。 みるみるうちに暗く沈んでいくなまえの顔を目にしてイワ姫は心配そうに訊ねる。 「どうしたのよ、何かあったの?」 「イワ姫さん、私…貴女に隠してることがあるんです」 「え?」 けれども、これ以上彼女に隠し事をしたくないという想いも強く在る。このまま隠し通せるとは思えないし、誰か他のひとの口から伝わるよりは直接話したいと思った。 そう考えて、まっすぐイワ姫を見つめる。 「鬼灯さんのことなんですけど、…彼結婚してるんです」 「………え?でもこの前はそんなこと一言も…」 「わ、私が止めたから」 「…なまえ?」 「私が鬼灯さんの妻、なんです」 情けなく震えそうになる声をとどめて、逸らしたくなる瞳を彼女に縫いつけた。イワ姫は信じられないものでも見るかのように目を見開き、声の出し方すら忘れたかのように押し黙る。 2人の間に流れた、耳に、心に痛いほどの静寂をふう、と彼女が息を吐く音が切り裂いた。 「あの時はアタシも荒れてたし、アンタのことだから気を回してくれたんでしょ」 「…イワ姫さん」 「確かにあの時結婚してます、なんて報告受けたら山のひとつやふたつ噴火してたかもね」 おどけるように言って肩を竦めたイワ姫は、ゆらりと瞳を揺らすなまえに向き直り、その想いに応えるように見つめ合う。 彼女の気持ちはその真摯な眼差しから充分伝わった。夫である鬼灯と同じくらい大切に想われていることも、わかった。 だからその情けない表情を何とかしなくちゃ、となまえの両頬を手で挟み込む。いつものあのやわらかな微笑みを見たいから。 手のひらの中で押しつぶされたり引っ張られたり、されるがままに形を変えていくなまえの顔が可笑しく、くすくすと笑いをもらしながらイワ姫が呟いた。 「アンタも優しすぎるわね、恋敵に気を使うなんてさ。それとも取られっこないとでも思ったの?」 「そんなことありません!……本当は嫌でした。誰かが鬼灯さんに恋をするところなんて見たくありませんでした…でも、イワ姫さんが傷つくのも見たくなくて、だから……」 なまえは他人のために自分を傷つけられる娘だ。時折心配になるほどに、自身より他人を優先してしまう優しい娘。 鬼灯も彼女を過保護に囲っているのだろうなと予想しつつ瞳をゆるめる。 綺麗な眉をきゅ、としかめてたどたどしく紡がれる科白に息を抜くように苦笑して、手の中の小さな箱を撫でながら口を開いた。 「わかってるわよ、言ってみただけ。アタシは確かに鬼灯様のことも気になるけど……なまえのことも負けないくらい気にかけてるんだからね」 「イワ姫さん…」 「アンタ見てると心配になってくるっていうか、世話焼きたくなるっていうか……つくづくなまえって変な娘だと思うわ」 「喜んでいいのか悲しめばいいのか…?」 「あのねぇ、アタシに目をかけて貰ってるんだから喜びなさいよ!」 言葉を交換するうち、普段の調子を取り戻したように軽口まで叩きあった2人は顔を見合わせると、どちらからともなく笑みを浮かべた。 そうして裁判所へと続く階段に足を乗せる。 聳えたつ扉の前まで来ると、何やら中が随分と騒がしいことに気がついた。分厚い壁を隔てても耳に届くほどの喧騒に首を傾げ、イワ姫と顔を見合わせる。 もう今日の分の裁判は終わったはずだけれど、何かあったのだろうか。 重厚な扉を押し開ければ視界に飛び込んできた、空中を勢いよく飛び交う黒い物体に目を丸くする。 足元にころころと転がってきたそれをよくよく見れば、木の実のような物だった。というよりこれは… 「カカオ、ですね?」 「何コレ節分とバレンタインがコラボしたみたいな…」 びゅんびゅんと宙を飛ぶ豆は節分を思わせるけれど実のところそれはカカオで、柱にくくりつけられた亡者を的にしている獄卒もいる。 鬼は外ならぬ亡者は外、福は内ではなくイケメンは内…など全く意味のわからない科白を吐きながらカカオを投げつける面々。 異常ともいえる光景に圧倒されぽかんと口を開けていると、なまえの傍を通りかかった茄子が声をあげた。 「なまえさん!なまえさんも参加します?」 「え、えっと茄子さん、これは一体…」 「おもしろいですよね!鬼灯様が考えたんですよー」 朗らかにそう言った茄子に事情を聞けば、節分への不満やバレンタインの浮つきから仕事の出来が悪くなるのを懸念した鬼灯の思いつきによるバレンタインイベントだそうで。 女性は意中の男性にカカオをぶつけることで想いを伝え、男性と好い人のいない女性は亡者を痛めつけることでストレス解消を図ろう、ということらしい。 表立って言えない気持ちを考慮して立案されただろう一風変わった告白方法になまえは困ったように笑い、普段ならば閻魔が鎮座する場所に立つ鬼灯を見上げた。 「ねぇなまえ、これ」 「え?」 「鬼灯様にもつくってきたけど…アンタの分も本当は用意してたのよ。ほ、ほら友チョコとか流行ってるじゃない!」 「チョコレート…わぁ、嬉しいです!」 「こっちのは脳みそも入ってないから安心して」 「は、はぁ脳みそですか?」 その言い方だと鬼灯の方には脳みそが入っているようだけれど、彼にそんな好みあったかな、と頭を捻るなまえをちらちらと見やるイワ姫。 彼女の言わんとすることはわかる。 鬼灯の嫁でもあるなまえの前で恋心の詰まったそれを渡してもいいのか、と問うような視線だ。 確かに清々しい思いはしないけれど手渡すこと自体は自由だと思うし、そこはなまえが制限をかけられるところでもない。 それにきっと鬼灯に手渡したいと思うひとは他にもたくさんいるだろう。 じくりと軋む胸は治まりそうもないが、彼女たちの心は縛れるものではない。その甘くせつない想いはなまえにも覚えがある大切な感情だからだ。 「いいんですよ、どうぞ渡してきてください」 「なまえ…アンタいい娘すぎるのもどうかと思うわよ?」 「うーん、でも私がとやかく言っていい部分ではないと思うので…」 「…わかったわ、行ってくる」 いくら断りを入れたからといってやはりなまえが傍にいては渡しにくいだろうと思惟し、鬼灯に向かって足を踏み出したイワ姫を見送る。 けれど彼女に着いていかなかった尤もな理由は鬼灯にあわせる顔がなかったからだ。というのも、なまえはチョコレートの用意をしていなかった。 イワ姫が地獄に訪れた理由を察することが出来なかったのを見ればわかるように、彼女の頭からはバレンタインデーという存在がそっくり抜け落ちてしまっていた。 皆の仕事の効率が悪かったため通常の業務よりも多くの職務を抱えていたなまえが失念しまうのも無理はないが、鬼灯はどう感じるだろうか。 毎年なまえのつくるチョコレートをそれとなく待っている気がするのは思い過ごしではない筈なのだ。 どうしたものかと首を傾けるなまえの着物の袖を、遠慮がちに誰かが引く。振り返るとそこに佇んでいたのは女獄卒たちで、何度か会話を交わしたことのある彼女らにまぶたをまたたかせた。 「なまえ様、よかったらこれ貰ってください!」 「え?」 「私もつくってきたんです!お世話になってるから…」 「前相談に乗って下さいましたよね、そのお礼です!」 私も、と次々に手渡されるかわいらしい包み紙を施された箱。 始めは戸惑ったようにきょとんと目を丸くしていたなまえだが、それがチョコレートだと理解するとぱっと明かりが灯ったように表情を明らめる。 腕に抱えきれないくらいの山となったチョコレートにふわりと頬をほどけさせるなまえにつられるようにして鬼女たちも微笑んだ。 しかし、そもそも職場内でのチョコレートの受け渡しは禁止されているはず、と我に返ったなまえは眉を下げた。 「とっても嬉しいんですけど…良いのでしょうか…?」 「大丈夫だと思いますよ、ほら」 指し示された白い指先をたどると、雨のように降る色とりどりの小箱を浴びている鬼灯の姿があった。きっとイワ姫に触発された獄卒たちが投げているのだろう。 複雑な想いを胸にからめながら鬼灯の様子を遠巻きに眺めていれば、ふと涼やかなその瞳と視線が繋がったような気がして思わず顔を背けてしまった。 「鬼灯様ってモテるよねー」 「ちょっとなまえ様の前で…」 「ってあれ、鬼灯様こっちくる」 え、と思い顔をあげたときにはなまえの周りを取り囲んでいた獄卒たちが縦に割れ、築かれた道へと足を踏み出す鬼灯と瞳がかち合った。 射すくめるような眼差しに気持ちばかり焦ってしまって、逃げる余裕もなくしたなまえは鬼灯が近づくのを待つしかなく。とうとう眼前に迫った漆黒にたまらずふいっと目を逸らしてしまった。 気まずさと申し訳なさにふらふらと宙を泳ぐ視線が気に入らなかったのか、顎を捕まえられて鬼灯を見上げさせられる。 目が合った先の虹彩にはとがめるような色と、けれども甘みを帯びた彩りを見て取ってぱちりと瞬きをした。 「え、えっと鬼灯さん…」 「チョコ用意してないでしょう」 「は…はい…」 「……」 「ご、ごめんなさいすっかり忘れていて…!明日までにはつくります…!!」 「まぁここのところ忙しかったですし予想はしていたのですが…そう何度も目を逸らされるのは頂けませんね」 顎に触れていた指先がするりと頬を滑り、幾度かそこを撫でたあと離れていく。 触れた肌から熱がうまれていく感覚に身を委ねつつ鬼灯を見上げると、彼の関心はなまえが抱えているチョコレートに注がれているようだった。 不思議に思いながら鬼灯を見つめるなまえに、低く落とした声色が降ってくる。 「良識の範囲内でとは思いましたが…本格的に禁止にしましょうかね…」 「え、ほ鬼灯さん?」 「同性にまで警戒心を持たなくてはならないのは少し厳しい…」 「あ、あの別に皆さん告白のつもりで下さったのではないですから!」 ぶつぶつと呟く鬼灯に弁解すると、眉をひそめた彼はなまえの腕の中にあるひとつを手に取った。 華やかなリボンのつけられたそれは可愛らしく、見ているだけで顔がほころんでしまう。 自然と瞳をやわらかく細めたなまえを目にして一層眉間のしわを深めた鬼灯は周囲の獄卒たちに視線を投げた。 「例えばこの中の誰かが男性の友人に頼まれて代わりに渡したということも、可能性としてはありますよね」 「そ、そんなことを言いだしたら切りが無いじゃないですか……!」 なまえに目を逸らされたことやチョコレートが貰えなかったことも相俟って虫の居所が悪いらしい鬼灯は、口をへの字に曲げたまま鋭い眼差しをぐるりと張り巡らせている。 ほとほと困り果てたように肩を落とすなまえを気の毒そうに見守る周りの面々。 「鬼灯様ってなまえ様がからむとたまに見境なくなるよね…」 「それ皆思ってるけど口に出さないようにしてたのに…!」 なまえはそんな会話を小耳に挟みながら、彼女たちに与えられたたくさんのあたたかい想いをぎゅっと抱きしめたのだった。 |