恋しぐれ | ナノ




現世へ視察に赴くため、久方ぶりに寮の私室へ足を踏み入れる。家を借りたとはいえ閻魔庁で夜を明かすことも多々あるなまえと鬼灯は部屋を引き払うことをせず、残しておいたのだ。
そこから必要な荷を鞄に詰め、鬼灯の自室へと足を向ける。

扉からひょこりと顔をのぞかせれば、やわくしなやかに揺れる真白な尻尾が目に入って思わず微笑んでしまう。


「鬼灯さん、準備……あれ?シロさんたちも一緒だったんですね」
「なまえ様も視察に行くんですか?」
「はい、1日だけの短い期間ですけれど」


なまえが現世に慣れないうちは鬼灯も付き添っていてくれたけれど、休日が重なることも少なくなり最近ではふたり一緒にという訳にもいかなくなった。
だから少しだけ、遠足前の子どものようにわくわくと胸を弾ませてしまうのも仕方のないことだろう。

シロたちと仲良く戯れるなまえの頬は高揚した気分を表すようにほのかな桜色に染まっており、彼女へ寄せていた鬼灯の瞳がふっと細まった。


「今ちょうど無理に変装しなくていいから現代はいい時代だよねって話してたんだよー」
「確かにコスプレで通せますもんね」
「なまえさんは見た感じ普通の人と変わらないから楽だよね!でも鬼灯様の角とか耳って何か術とかで隠せないの?」
「私は魔法使いではないので…しかしあるにはありますよ」


イギリスのあの世に魔女の谷という小さな都市がある。其処で作られているのが鬼やその他人外が、一時的に人の形を取ることが出来る医薬品だ。
国際化がかなり制限された其処は想像もつかないような不思議なものであふれていて、ゆえに魔女の谷の物品を持ち出す際は厳密な検査を受けることが必須だ。
まさに魔法使いの住む谷といえる場所。

好奇心旺盛な性質は昔から変わらないなまえは1度でいいから行ってみたい、とまたたく星のように瞳を輝かせている。

鬼灯も出来ることなら連れて行ってやりたいが、如何せん暇がない。
今度閻魔に仕事を押し付けて無理にでも有給をもぎ取ってやろうかと不穏なことを考えながら引き出しの中を探り、好奇が揺れるシロたちの眼差しに応えてやる。


「第一国産輸入制限品にあたるのが魔女の医薬品でして、その中のひとつがコレです」
「ホモサピエンス擬態薬ですね、30mlで30万円します」
「効き目は1時間ですので税関等いざという時にしか使えません。それに副作用でとても眠くなるんですよ」
「鬼灯さんの寝顔が思うままに見られるチャンスを作ってくれます!」
「なまえ」


鬼灯になだめられながらも、期待を込めた目で瓶の中の液体を見つめる。なまえはお世話になったことのない薬だが、どんな原料で作られているか知りたいところだ。
それに擬態薬を飲んだあとの眠気をこらえる鬼灯の表情やかすかに潤んだ瞳がすきだったりする。
睡眠欲に負けてしまった鬼灯のあどけない寝顔もじっくりと見られるし、良いこと尽くめだ。

ふふ、と笑みをふくむなまえの頭を優しく小突く鬼灯にたしなめられて口をつぐむ。


「けど実際現地に行くと色んな悪いこと見ちゃったりしないですか?」
「見ますね、しかし私はあくまであの世の者、現世の事件に手出しはしません」
「でもあの時止めていれば、亡者の罪が軽くなったのかも知れないって思ってしまうことはありますね…」
「今しがた出会った他人が手を出したところで、その人間の根本的な部分が変わることはありませんよ、なまえが気に病むことではありません」


鬼灯は胸に手を当てて眉尻を下げるなまえの頭をそっと撫でると、彼女はそのぬくもりに気を取り直して唇をわずかにゆるめる。

そんな2人を穏やかに見つめたルリオは、なまえに視線を移した。
つくづく地獄の似合わない温厚篤実なひとだ。2人は足りない部分を補うことで支えあっているのだろう。
きっと互いにかけがえのない存在となっている。
そう思考を巡らせる生真面目な雉をよそに、柿助はハンガーを通されたそれに興味を示した。


「ねェ鬼灯様、コレって現代の服?」
「こっちはいわゆる普段着、こっちは一般的な会社員ですね」


棚に掛けられているのは会社員が着ているようなぴしっとした背広とカジュアルな現代服だ。
その服に袖を通した鬼灯を見たことがあるけれど、着物姿とはまた違った魅力があって。心が妙にふわふわと浮ついて、暫くの間見惚れてしまうほどとても似合っていた。


「どちらもお似合いなんですよ」
「そういえばなまえはあまり現代の服を着ませんね」
「着物でも充分怪しまれませんし…少し憧れますけど」


それこそスーツやアルバイト先の制服を身につけただけで、箪笥の中には洋装などひとつもない。
単なるウェイトレスのスカートですらひらひらとした裾が心許なく落ち着かなかったので向いていないと思うのだが、やはり可愛らしいその見た目に憧れに近いものを抱いてしまう。
そんななまえをちらりと見やった鬼灯は口を開く。


「今度選んであげましょうか」
「あー、よくあるよね、恋人に服一式プレゼントしちゃうやつ!」
「…そうですね、お願いします」
「女性の服はよくわからないので、雑誌か何かを参考にさせてもらいますが…」


シロの言葉にほわりと頬に熱をためたなまえが唇をほころばせる。どんな服でも鬼灯が選んでくれたのなら、なまえにとってそれはとても特別なものになる。
ふっと心をゆるませていると、時間が近づいて来たらしくキャスケットを被った鬼灯がなまえを手招きした。


「ではそろそろ行ってきます」
「何かお土産を買ってきますね」
「わーい!行ってらっしゃい!」
「お気をつけて」


そうして3匹の声を背に受け、鬼灯と並んで部屋を出たのだった。


家族連れや子どもたちの声で賑わい立つ其処。
今日は遊園地を視察することになっていた。着ぐるみをまとい鬼に扮した鬼灯は的当ての的となり、なまえは売店の売り子のアルバイトだ。
思い思いにはしゃぐ子どもたちを微笑ましく見つめ、様々な人とふれあいながら働いている内に空が次第に濃紺色へと塗られていく。
ぽつりぽつりと星の光が灯り、いよいよ閉園時間となった。
1日の終わりだ。


「鬼灯さん、お疲れ様です」
「なまえもお疲れ様でした」


着替えのために控え室から出て来た鬼灯に駆け寄り、労いの言葉を交換する。互いを優しく見交わし、肩を並べて歩き始めるとすっかり宵も更けていたことに気がついた。

辺りは色濃い夜の闇にとっぷりと侵食されており、もの寂しいしじまに包まれている。
昼間の騒がしさが嘘のようだ。数少ない外灯のみが周囲を照らしていて、あまり心強いとは言えない。


「閉園後の遊園地って少し怖いですね…幽霊とか出そうです……」
「何言ってるんです、なまえも幽霊のようなものでしょう」
「そ、それはそうなんですけど!」


墨を流し込んだような闇の割れ目から生気のない顔がのぞくのではないかと、つい想像してしまう。
雰囲気に弱いなまえが肩をすぼめて隣を歩むその距離が、いつもよりずっと近いのを目に止めた鬼灯はひとつ頷いて呟いた。


「まぁ人が集まるところに霊も集まると言いますからねぇ…」
「!」
「皆帰ってしまって、取り残された霊たちはさぞ寂しいでしょうね。やはり自ずと私たちに近づいてくるのでしょうか」
「ほ、鬼灯さん!」
「何でしょう?」
「て…手を繋いでもいいですか…!」


着物の袖を握って鬼灯を見上げるなまえの瞳は今にも涙をにじませてしまいそうで、くしゃりと歪んだ顔はひどく情けない。
ささいな物音ひとつに怯えるその表情を愉しむかのように暫く眺めた鬼灯は、ふっと息を抜いてその大きな手のひらを差し出した。


「どうぞ」
「ありがとうございます…!でも怖がらせるなんて鬼灯さんも人が悪いですよ……」
「生憎鬼なので。それに私がこういう性分なのはよく分かっているでしょう」
「……もう…」


戯れのような掛け合いも、反応ひとつひとつに向けられる甘みの帯びた眼差しも。なまえだけに寄せられるものだから、すべて許せてしまう。
きゅっと握られた手にじんわりとぬくもりが伝わっていくのを感じながら、なまえは重なりあう肌へいとしさを乗せたのだった。


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