恋しぐれ | ナノ




ざり、と砂利の混ざった土を踏みながら煌びやかな建物が並ぶ通りを進む。

これは断じてサボりなどではない。自分の仕事はきっちり終わらせたし、視察に出向いた鬼灯の帰りが遅いからこうして衆合地獄に足を運んでいるだけで、普段見られない花街の様子に好奇心をくすぐられたなどという理由では決してないのだ。
そう言い聞かせてほのかに頬を上気させながらきょろきょろ、と首を巡らせるなまえは胸を弾ませた。
刑場への道を少し外れ、唐紅色の街を進む。
周辺を見回し童心に返ったように無邪気な顔をのぞかせるなまえは此処では悪目立ちしていたらしい。ちょうど店先に出てきた男は糸のように細めた目をなまえに向け、口を開いた。


「嬢ちゃん、ここは男の楽園じゃ。アンタみたいな娘がどうして……ん、よう見るとなかなか可愛らしい顔立ちしてんなァ…」
「え?」
「なァ嬢ちゃん、もし仕事探してるんじゃったらいいトコ紹介するで」


どうやら職探しに来たと勘違いされているらしい。煙管を咥えながらなまえの上から下まで品定めするように眇めた瞳を滑らせるその人に弁解しようと口を開いたその時、聞き慣れた声が鼓膜を揺らした。


「よーう最近どうでィ…ってなまえ様ァ!?」
「小判さん」
「何でここに…つーかどうして檎と一緒にいるんでィ?」
「何だ小判、知り合いかい?いや、この娘が仕事探してるんなら紹介したろうと…」
「はァ!?…命諸々、惜しけりゃこの方に手ェ出すのはやめといた方がいいと思うぜ」


状況についていけないなまえを放り出したまま、小判と檎の話し合いはとんとんと続いていく。
何かまずいことでもしただろうか、と眉を下げるなまえを横目に、小判は丸い猫手をちょいちょいと揺らした。屈むようにせがまれた檎は腰を曲げ、娯楽雑誌記者に耳を傾ける。
暫く顔を寄せ合っていた彼らだったが、突然飛び上がるように背筋を伸ばした檎はきょとんと目を丸くしたなまえにぎこちなく振り返りながら口を開いた。


「い、いやまさか閻魔大王様の補佐官なんて…知らんと失礼なことを……」
「いえ、いいんですよ。何も考えずにふらふらしていた私が悪いんです」


鬼灯とは違いメディアへの露出が少ない分、なまえの存在を知らない者も多い。落ち着きなく彷徨う様を見て求職に来たのだと思われても仕方のないことだ。

朗らかに微笑みながら首を振るなまえは随分穏やかな気性の持ち主らしい。檎がほっと息をついたのを見て、小判は三日月に細めた目を向けた。恐るべきはそこではない、とでも言いたげである。


「いやいや、本当にビビるのはそこと違」
「おや、なまえじゃないですか」
「鬼灯さん!」


言葉を言い終わらぬうちに割り込んで来た低い声音を敏く聞き分けた小判は、さっと身を翻し屋根の上へと飛び退る。その何とも素早くアクロバティックな動きに目をまたたかせていると、こちらへと歩み寄った鬼灯にこつん、とかすかに頭を小突かれた。
なまえを見据えるすっと研がれた目つきは鋭く、身は震えそうだったが叱りつけるようなその仕草は存外優しいものだ。


「どうしてなまえが此処にいるんですか」
「あ、鬼灯さんの帰りが遅かったので…その…」
「そのくらいは予想が付きます。聞いているのは何故私が視察に行った衆合地獄ではなく、花街にいるのかということです」
「ま、迷っちゃって…鬼灯さんこそどうしてここに?」
「ただの通りすがりですよ。それより貴女何度衆合地獄に来てると思ってんですか、今更迷う筈ないでしょう。まぁ大方好奇心に動かされたんでしょうけど……」


つらつらと小言を重ねられる毎にしゅん、と肩を落とすなまえはいたずらが過ぎて叱られた幼子のようだ。そんな彼女を一瞥しため息を吐く鬼灯に威厳と冷徹を振りかざす常の姿は見る影もなく、宛ら母親のそれだった。

当人たちには由々しき事態なのだが、妻を思い遣る様相は傍から見れば微笑ましい光景として目に映ったようだ。行き交う人々は唇の端から笑みをこぼしている。
鬼灯は周囲からの眼差しに眉を寄せながら、目を伏せてしまったなまえを静かに見下ろした。


「声をかけられませんでしたか」
「な、なぜそれを」
「………ハァ…だから嫌だったんですよ」
「え?」
「心配するでしょう」


思いがけない鬼灯の科白になまえの頬へぽっと赤が灯る。心を砕いたような余韻を持つ声に先ほどまでの気落ちしていた様はなりを潜め、なまえはやんわりと表情をやわらげた。

頬のたゆみを引き締めようともしないなまえに鬼灯はひそかに口元をゆがめる。
花街に来れば彼女が声をかけられるのは目に見えていた。客引きか遊女への勧誘か、どちらかに絞られるだろうが、なまえの場合前者はあり得ないだろう。
そう仮定するならば彼がなまえを唆そうとした男か。
思案の末はじき出された結論に、なまえの隣でぼうっと立ち尽くす男に鬼灯は冷えた視線をやった。氷の礫を投げられたかのようなその目にひっと息を飲んだ檎は無理矢理唇を引き上げながら揉み手をする。


「兄さん何か…?」
「…なまえにはもう2度と、」
「誘いません誘いません!」
「……ついでになまえ様はその冷血補佐官の嫁だけどなァ」


屋根瓦に縋り付くように身を横たえる小判の言葉に、さあっと青褪めた檎は更にぺこぺこと頭を下げる。
小判の科白を鑑みると仏頂面を引っ提げた彼もまた補佐官で、おまけに彼女の夫であるらしい。変に話を拗らせないためにもここは頭を下げていた方が得策だろうことは、様々な客を引く檎でなくともわかることだ。


「それはそうとここ妲己さんの店ですよね、営業許可取ってます?」
「え?…取って…ますよ。それに獄卒にゃ関係ねェこってすじゃ」
「まぁ烏天狗警察でもない私が直接ガサ入れする訳じゃないですけどね」


話の種が変化したことに人知れず安堵している檎をよそに、ある店の門を叩くひとりの少年がなまえたちの視線を奪った。聞き覚えのあるその声の持ち主は義経だ。
彼の口から飛び出した警察、という単語にがたがたと店仕舞いを始めた周囲の従業員によると、どうやらひどいぼったくりをする店だという情報が垂れ込まれたらしい。
騒ぎを聞きつけたのか上階の障子窓がすらりと開き、顔をのぞかせた彼らにあっと声をあげた。


「白澤様、妲己さん!」
「何かあったの?っていうかなまえちゃん!?どうしてここにいるの?」
「オマエいたのか」


なまえの隣に寄り添う鬼灯と女にかまけていただろう白澤。
相手を見止めた瞬間ばちっと火花を咲かせる2人に困ったように笑っていると、白澤の隣で三味線を手にしていた妲己が艶やかに微笑んだ。


「アラなまえちゃん、もしかして転職?」
「違いますよ……なまえ、私は義経さんに話を聞いてくるのでそこを動かないでください」
「あ、はい」


なまえが鬼灯を待つ間、上にあがっておいでよと口八丁に誘う白澤たち。それを何とか躱していると、不意に背後に人の気配を感じて鬼灯かと振り返る。

確かにそれは鬼灯だったのだが、彼が身を包んでいたのはたゆたう夜の闇で染め上げたような、あの漆黒の着物ではなく。
市松模様の着流しを着崩し、中に着込んでいる金魚草柄のそれを見せるようにして気だるそうに佇む姿はまるで遊び人のような風貌だ。いつもよりもはだけた胸元から垣間見える、逞しいがすべらかな素肌の白が甘い毒となって脳を刺激する。


「ほ…鬼灯さん?」
「ええ、ちょっと潜入捜査をして来ることになりました」
「だからそんな格好を……あ、金魚草可愛いですね!」
「それだけですか?」
「え、」


なまえの呑気な感想を耳にして眉を上げた鬼灯は、じりじりと距離を詰めていく。ゆっくりと迫られるままに後退していると、とん、と背中が壁についた。身に走る鈍い衝撃に漸くなまえは追い詰められていたのだと気がつく。
彼から漂うどこか甘さをふくんだ空気になまえが追いつく前に、鬼灯は彼女の頭上へと手を突き、すっと身を屈めて顔を近づける。
思わぬ接近に心臓がとくりと音を立て、気恥ずかしさから顔を背けるとその長い指先に顎を掴まれて上を向かされた。


「鬼灯さん?あ、あの…えっと、」
「……」


じっとなまえを見つめるその黒曜の瞳は、あまやかな熱をはらみながら鈍く光を帯びる。
眼前に広がる彼の整った顔。嫌でも目に入ってしまう唇と、寄せられる眼差し。かすかに顔を傾けたその仕草にたまらず耳まで赤く染めあげれば、満足そうにひとつ頷いた鬼灯が離れていく。
意味もなく詰めていた息を吐き出し、鬼灯を上目にきっと睨みつける。


「も、もう!何なんですか鬼灯さん!」
「せっかくこの格好をしたんですから遊び人らしく振る舞おうと思いまして」
「遊び人は無言で顔を近づけたりしません!」
「おや、もしや期待しましたか」
「な、」


くつりと喉を鳴らしてなまえを見つめる鬼灯に顔面どころではなく全身がじわじわと火照っていく。
湧き上がる羞恥から二の句が継げず、唇を噛みしめたまま鬼灯の胸元をぽかりと軽く叩くなまえの頭を諌めるように撫でてやれば、やがて大人しくなった彼女が小さく唇を開いた。


「期待……したって言ったら、どうするんですか」
「もちろん、貴女の望むとおりにしますよ」
「………!」


臆面もなくさらりと告げられた言葉に恥じらうように肩をすくめるなまえの頬を優しく愛でる鬼灯の指。節くれ立った男のそれにゆるくまぶたを伏せた彼女の一瞬の隙をつくように、やわらかなぬくもりが唇をかすめた。
その身に何が起こったのか理解に至らないのか、ぱちぱちとあどけなく瞬きをした彼女は指先でそっと自身の紅唇をなぞる。

踵を返した鬼灯の瞳がゆるく細められていたことに気がつかないまま、たまらずきゅっと目を瞑れば、蘇るのはふんわりと柔い特有の感触。
口づけをされたんだ。
頭の中で無意識に呟いたなまえは再び火のついた頬を携えながらその場に蹲り、弱々しくうなったのだった。


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