今日はEU地獄との平和条約締結以来、度々開いているサタン王の講演の日だ。 なまえと連れ立って廊下を歩いていた鬼灯は知り合いでも見つけたのか、ふと足を止めた。 「おや貴方は」 「お、お前…!」 「お知り合いですか?」 「……………どなたでしたっけ」 「…うーん、何か引っかかるのになかなか思い出せないことってありますよね」 頭の片隅に触れるものがあるのに肝心の記憶が引き出せないことは稀にある。どうやら自販機の前に佇んでいた男性と面識があったようで、鬼灯はじっと観察するように彼を眺めた。 きっちりとタキシードを着込んでいるところを見ると身分が高いのだろう。触覚の生えた頭と手を覆う緑色の硬い皮膚。背中には昆虫の翅が生えており、周囲にはハエと思しき虫が飛んでいる。 何か見覚えがあるのだけれど、とふたりして首を傾げていると、ぶるぶると身を震わせながら憤慨した彼が叫んだ。 「ベルゼブブだァァア!!!お前とは外交の席で何度か会ってるぞ!!」 「さ、サタン様の右腕のベルゼブブ様でしたか!すみません、うっかりしておりました…!」 「…君は?」 「私は閻魔大王の第二補佐官を務めさせて頂いております」 丁寧に頭を下げるなまえにベルゼブブはふむ、とひとつ頷く。 閻魔大王にはこの仏頂面の鬼の他にもう1人補佐官が就いたと聞いてはいたが、温厚でごく平凡そうに見える彼女がそうだとは思わなかった、と少々不躾になまえを頭の天辺から足の先まで見回した。 居心地悪そうに首をすくめた彼女を背に庇うようにした鬼灯をよそにベルゼブブの脳内にちらついたのは、美しい妻の深い紅の瞳だった。 そういえばリリスがひどく気に入ったと言っていた女はどこにいるのだろう。 1度挨拶に伺わねば、と機嫌良く日本観光から帰って来た彼女を思い浮かべつつ鬼灯とは違い無害そうななまえから視線を外す。 次いで彼女の隣で漸く頭の引き出しからベルゼブブの存在を見つけられたのか、ぽん、と手を打った鬼灯を蝿の王は鋭く睨みつけた。 「…ということは先日いらしたレディ・リリスの旦那様」 「お……おおそうだっ!お前俺の嫁に何か変なことしなかっただろうな!?」 「とんでもない、唯…彼女には少し手を焼かされただけです」 「な何のことだ!お前リリスに何をした…!」 何かしたというかむしろされたというか。不思議そうに鬼灯を見上げるなまえを一瞥し、ふうとため息を吐く。 何を勘違いしたのかこのむっつり野郎と罵るベルゼブブは放っておくとして、妙な誤解は外交に差し障りかねない。鬼灯は面倒そうに歪めた表情のまま、さらりと科白を連ねる。 「私は相手がどなたであろうとも不貞行為を働く気はありませんので別の男を紹介させて頂きました」 「旦那目の前にして何堂々と間男仲介したことを事務的に報告してんの!?」 「そうですよ鬼灯さん、もう少しお茶を濁して…」 「そういう問題じゃないだろ!?」 あくまでリリスの本分を尊重したまでだと正論を説く鬼灯にぎりぎりと歯を噛みしめたベルゼブブ。何気なく放られた鬼灯の言葉に違和感を抱くことはなく、プライドの高い彼は口では敵わない有能な補佐官を打ち負かしたいと、そればかり切望しているようだ。 スポーツに誘うベルゼブブを見、眉ひとつ動かさない鬼灯に目をやる。 彼には悪いけれど、鬼灯が誰かに負かされるところを想像できないのは贔屓目もあるのだろうか、となまえは困ったように笑った。 * やって来たのはなまえも時たま利用している、グラウンドやジムも完備された施設だ。気分転換と運動不足解消を兼ねて作られたそこをベルゼブブは感心しながら見回した。 「おっ、テニス!お前アレできるか?」 「…一応やったことは……」 「がんばってくださいね、鬼灯さん!」 なまえの応援にこくんと頷いた鬼灯はコートへと入っていく。 ベルゼブブも位置についたことを確認し、ぽん、とボールを宙に放ってラケットを構えた姿勢はとても洗練されたもので。ぴんと伸ばされた背筋としなやかな動作に思わず見惚れた、その時だった。 空気が割れるようなすさまじい音を響かせて鬼灯が打ち出した剛球がベルゼブブの顔面にまるで吸い込まれるように叩きつけられたのだ。 そのままくずおれるベルゼブブの脇に転がったボールからはしゅうしゅうと煙が上がっている。 「べ、ベルゼブブ様!」 「アレ?すみません、別のにしましょう」 「鬼灯さん…ちょっといいですか」 なまえは蹲る彼を気にしつつ、鬼灯をコートから連れ出して彼の耳にふっくらとした唇を寄せる。 かかとを持ち上げるなまえに合わせて屈んでやれば、彼女のひそめた声が優しく鼓膜をなぶった。 「まさかとは思いますけど…球技が苦手なんじゃないですか?」 「…どうして分かったんですか?」 「やっぱり……ボールがベルゼブブ様のお顔にまっすぐ飛んで行ったからまさかとは思ったんですけど…、でしたら球技はやめた方が」 「おい、何を話してるんだ」 こそこそと身を寄せ合う2人に訝しげな目を投げたベルゼブブは割り込むように声をかける。 次だ、と先を行ってしまう彼に鬼灯は肩をすくめて歩き出した。何だかとても嫌な予感がするのだが、止める術を見つけられなかったなまえは結局彼らに付き従うことしか出来ないのだった。 案の定ゴルフにサッカー、卓球。すべての競技においてその球がベルゼブブに襲いかかるのを眺め、なまえは口元を引きつらせた。 「…私正直球技って苦手なんですよ、ボール=人にぶつけるという本能があるので…」 「仕事に熱心なのも考えものですね……」 「おい何でちょっと納得してるんだよ!おかしいだろ完璧に拷問中毒だろ!」 弱ったように手のひらを頬に当てるなまえに半ば呆れながら突っ込みを入れるベルゼブブは、彼女も相当鬼灯に毒されていることに漸く気がついたらしい。 鬼灯の下に就くだけはある、と血に塗れた顔を拭いながら息をついた。 どうしても何かしらの勝ち星をもぎ取りたいらしいベルゼブブは今度は武道だ、と未だ食い下がっている。そんな彼をいさめるように柱時計の鐘が低く空気を揺らした。 もうそろそろサタンの講演も終わる頃だろう、こちらも仕事に戻らねばならない。 そう伝えると悔しそうに肩を震わせたベルゼブブは何か思いついたのか、唐突にその面を上げた。 「勝った!!」 「何がです?」 「お前は独身、俺にはリリスという美人な嫁さんがいる!そうだ、俺はリリスに愛されている!」 「……」 高笑いするベルゼブブに呆気に取られてあどけなくまばたきを繰り返すなまえと、呆れ果てたような眼差しを彼に突き刺す鬼灯。 ふう、と哀れみの混じった吐息をついた鬼灯に肩をやわらかく引き寄せられ、なまえの心臓がとくんと跳ねる。そうしてなまえの華奢な肩と鬼灯の固い胸板が触れ合った時、彼は静かに喉を震わせた。 「良い気になっているところ水を差すようで悪いですが、私にも嫁はいます」 「何!?まさか彼女が…?」 「は、はい…」 「だ、だがリリスの方が才色兼備で美人だ!」 「初めから全てを有しているなんてつまらないじゃないですか。躾ける過程がよいのです」 その言い方は何だか犬や猫を調教するそれに似ていませんか、と心の中で問いかけながら鬼灯を仰ぐと、髪をひと房彼の指先にゆるりとからめとられて戯れに弄られる。 いつもじわじわと胸に染み込むようなこのぬくもりに絆されてしまうのは惚れた弱み、というやつだろうか。 「このドS野郎が!」 「誰がSですか、あとひとつ申し上げるならば彼女の魅力を理解出来るのは私だけで充分なんですよ」 なまえの魅力を隠しておけたらどんなにいいかと思ったのは1度や2度ではなかった。なまえに惹きつけられる者がいるからこそ彼女の今の立場は確立しているのだが、中には鬼灯の手厳しい牽制を必要としてしまうくらいなまえに心ひかれる者がいるのも事実で。 何度幼い嫉妬に心を燃やしたかわからない。 再びちりりとくすぶりそうになった暗い情念を振り払うように、こちらを見つめるなまえと瞳をからめた。彼女の虹彩に映し出されるあたたかい色にふっと心がやわらぐ感覚に身を任せ、鬼灯は気を取り直したように顔を上げる。 「さ、彼は放っておいて仕事に戻りますよ、なまえ」 「はい」 「何だその言い草は……って、なまえ?」 「人の嫁を気安く敬称無しに呼ばないでくださいよ」 鬼灯の不機嫌そうな声などお構いなしにベルゼブブは心に引っかかったその名前を反芻する。 ―「日本で面白いコを見つけたの、なまえちゃんっていうんだけど」 想起したのは艶やかな笑みをたたえてそう囁いた愛する妻だ。 まさかリリスが言っていたのは彼女のことかと眼前できょとんと目を丸くしてこちらを見るなまえと、その傍を片時も離れようとしない鬼神に視線を巡らせる。 「ああ、貴方からもリリスさんに釘を刺しておいてください。なまえで遊ぶのは控えてくれ、と」 「……」 珍しく気の合う友人でも見つけてきたのかと思ったが、鬼灯の言動ひとつひとつに頬へほのかな朱を差すなまえを見る限りではからかう対象としてお気に召したのだろう。 リリスの心をある意味で射止めたなまえと、彼女を嫁として迎えた鬼灯。何故だか優位に立たれたような気がしてならないベルゼブブは背を向けた2人に言葉をかける気にもなれず、力なく項垂れたのだった。 |