恋しぐれ | ナノ




かたん、と椅子を引き立ち上がった彼をちらりと見やる。風呂敷包みを手に持った鬼灯は今から烏天狗警察へ赴き、盂蘭盆祭りのポスターに義経を起用できないか交渉するのだ。
隣でこちらを見上げるなまえに向かって、鬼灯はひらりと手を上げる。


「では少し烏天狗警察の方に行ってきます」
「はい、いってらっしゃい。あ、私も後から伺いますので義経さんによろしくお伝えください」
「後からと言わずになまえも一緒に来たらいいじゃないですか」


なまえは閻魔大王の溜め込んだ書類作成を手伝っていた手を止め、金棒を担ぎながら小さく首を傾げる鬼灯へ困ったように笑う。
彼女の手元で白い肌に続きが描かれるのを今か今かと待つそれに目を止め、眉をひそめた鬼灯はひとつため息を吐き出した。


「大王が溜めた書類でしょう、期日までまだ時間もありますしそんな物熨斗をつけて突き返してやりなさい」
「閻魔大王も別の案件で手が離せないようですし…準備もありますので」


相変わらずの言いように苦笑をもらしながらふるりと首を振ると、なまえが口にした準備という単語が引っかかったのか、鬼灯は不思議そうに問いかける。


「準備ですか?一体何の?」
「うーん、内緒です」
「…内緒、ですか。確か義経さんに用があるんでしたっけ」
「は、はい」


す、と自然な仕草で顔を近づけられ、吐息が触れるほどのその距離にほのかに頬を染めながらもこくんと頷く。
目を逸らそうとするけれど、涼やかなその眼差しに縫い付けられたように身動きひとつ出来ず瞳をからめあう。とくん、と胸を打つ心臓を押さえつつ負けじと鬼灯を見つめた。
鬼灯は暫くの間なまえの真意を探るように瞳をのぞきこんでいたが、やがて諦めたように肩をすくめるとくるりと踵を返す。


「ではそう伝えておきます。道中気をつけてくださいね」
「はい、鬼灯さんも」


互いに心を傾けるような言葉を残して執務室を出て行く鬼灯の背中を見送り、ほうと息をつく。

義経への用事というのは、以前から彼に相談されていた悩みに関連する。鬼灯にも明かさなかったのは彼の沽券に関わることと懸念したからだ。口止めされたわけではないけれど、本人のいないところで噂されるのは気分のいいものではないだろう。
気にする素振りを見せた鬼灯には心の中で謝罪しながら、筆を入れられるのを待つそれにペンを走らせたのだった。





「失礼します」
「あ、なまえさんだー」
「おやなまえ、来たのですか」
「はい、ひと段落ついたので…シロさんも一緒だったんですね」


烏天狗に通された部屋の障子をすらりと開けると、畳の上にきっちり正座する鬼灯の隣にはシロが、彼らに向かい合うようにして義経が座っていた。
鬼灯に身を寄せるシロを微笑ましく思いながら義経に向かってぺこりと頭を下げると、ぱっと表情を明るくした彼がこちらへ近寄る。


「こんにちはなまえさん」
「こんにちは。…それ脳吸い鳥の温泉卵、ですか?」
「あ…はい、私には鉄臭くて少し……」


確か鬼灯が昼食にすると言って買っていたなあ、と思い返しながら彼の華奢な指先につままれたそれを一瞥する。
あの世へ住まうことになって幾星霜の時を重ねてきたけれど、未だになまえは見た目にも味にも癖がある地獄珍味にあまりなじみがない。どうしても現世の食べ物が恋しく思えてしまうのは仕方のないことだろう。
義経も同じようで、整った眉をひそめて最後の一口を放り込んだ。


「でしたらこれ、この間言っていた物です」
「わ、わざわざ作って来てくれたんですか!?」
「我々を置いて話を進めないでください。この間とはいつのことです?」
「その包みなぁに?おいしそうな匂いがする」


感激したようにきらきらと目を輝かせる義経に手渡した包みの中身は弁当だ。

以前、於岩の件で烏天狗警察には迷惑をかけたのでお詫びにと彼らに差し入れを持っていったのだ。
その時知り合った義経が何やら思い悩んでいる様子だったので話を聞けば、線が細いのを気にしているらしかった。彼の相談に乗っているとやはり今日のように食事から改善してはどうかという話になり、それならばと提案したのがなまえお手製の弁当だった。そうして約束どおりたんぱく質を豊富にふくんだ食べ物を詰めて持参した、という訳だ。

ふんふんと包みのにおいを嗅いだあと問いかけるようにぽすん、となまえの膝に前足を乗せたシロはかわいらしいのだが、その背後で鋭い眼光を飛ばす鬼灯に口元を引きつらせながら懸命に言葉を連ねる。


「ほう、そんなことがあったのですか」
「はい。あ、あの、黙っていてすみませんでした…」
「いえ、彼に配慮した結果なのですから特に気にしていませんが……」


彼の黒曜色が射すくめるのは義経の手の中にある弁当箱。じい、と穴があくほどに見つめる鬼灯にもしかして、とひとつの考えが頭に浮かぶ。
結婚してこの方、食事には全て閻魔寮の食堂を使っていた。引っ越してからも朝食や夕食は作るものの、昼はやはり食堂を利用しているのだ。

つまり、鬼灯には弁当という物を作ったことがない。
まさかとは思いながらもそろそろと鬼灯に目を戻し、そっと口を開く。


「お弁当作ってほしかったり…しますか…?」
「…………当たり前でしょう、愛妻弁当というのはある意味夢ですよ」
「あいさい…」


数秒の空白の後、ふい、と顔を背けられながら落とされた科白。予想が当たっていたことを安堵するやら何だかくすぐったい嬉しさを感じるやらでほのかに頬を色づかせたなまえはやわい笑みを浮かべた。
胸の辺りがほわりと浮かぶような感覚にゆるゆると頬をほぐしていると、鬼灯は気を取り直したようにこちらを向いた。


「毎日とは言いませんが、手が空いた時にでも作ってほしいです」
「ふふ、わかりました。鬼灯さんの好きなおかずたくさん入れますね!」
「…楽しみにしてます」


そんな睦まじい会話を交わすなまえたちを眺めていたシロは、つられるようにしてやわらかな尻尾を揺らす。ゆらゆらと振り子のように動く豊かな尾はどこか嬉しそうだ。
2人は穏やかに瞳を見交わしたあと、未だに思い悩む様相を見せる義経に顔を向けた。


「あとは…鬼灯さんのように単純に重い物を持つとかですかね」
「なるほど、これを毎日持っていれば確かに……」


大切そうに弁当を脇に置くと、義経は背丈ほどもある金棒を持ち上げようと躍起になって力を込める。金棒の頭をずりずりと引きずってしまっているのだが、懸命に努力する彼を止める気にはなれなかった。
彼が頑張る理由を疑問に思ったのだろう、ちょこんと行儀良く座っていたシロは首を傾げながら訊ねる。


「そこまでして鍛えてどうしたいの?何か目的があるの?」
「義経さんには夢があるんですよ」
「はいっ、生前から夢だった力士へ転職したいんです!」


夢みる少年のようにまばゆい表情を見せた義経を襲ったのは、どすこい、という掛け声と共に突き出された鬼灯の力強い張り手だった。
鈍い音を立てて壁に受け止められた義経に思わずあげてしまいそうになった悲鳴を何とか喉の奥にとどめる。


「鬼灯さん!何てことするんですか!」
「イヤさすがにそこは牛若丸の自覚を持って頂かないと…もはや伝説ですし、彼をお盆のポスターにすると提案してしまったのですから」
「だからって突き飛ばすことないでしょう?だめですよ鬼灯さん!」


悪戯が行き過ぎてしまった子どもを叱るように腰に手を当てて鬼灯を見上げたなまえに、ですが、と食い下がると上目にひと睨みされて口をつぐむ。
恐れなどは感じないのだが、鬼灯は彼女に叱られると弱いのだ。

結局のところ義経の願いは叶えられることなく、盂蘭盆祭りの広報には彼が採用されたのだが。
本人の意向はどうであれ、出来上がったポスターに色めきたつ周囲の反応を見る限りでは鬼灯の言うことも最もかも知れない、となまえは浅く息をついたのだった。


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