恋しぐれ | ナノ




記録課での職務を終え、執務室へと戻る途中。
通りがかったそこで目に入ったのは、床に敷かれた布団の上にうつ伏せになる閻魔とその腰をあたためるルリオ、大きな手に触れるシロの柔らかい肉球。
アニマルセラピー?と疑問符を浮かべるなまえに、閻魔は天の助けが来たといった具合に明るい表情を見せた。


「なまえちゃん、鬼灯君を止めてよ!鍼の知識なんてないくせに鍼治療しようとするんだよ!」
「え?えっと…鬼灯さん?」
「ぎっくり腰になった大王を親切に治して差し上げようとしたのに…」


ふう、とため息を吐いた鬼灯に苦く笑い、彼の持つ鍼治療と書かれた医療本に視線をうつす。勉強してから手を出そうとしているあたり親切なのだろうか、とあどけなく首を傾ぐなまえも随分と毒されたものだ。
本にもツボ、指圧とタイトルに掲げられているが、それはどうだろうと口を開く。


「ツボとかはどうですか?指圧ってよく効くって聞きますよね」
「ああ、それは鍼よりいいなあ」
「では…」
「あんまり全力で押さないでよ?」


鬼灯から本を手渡され、閻魔に向き直った彼はかぽ、と冠を外し、頭頂部辺りに親指を当てる。
そこには百会という経穴があるらしい。本には頭痛、めまいなどに効果があるほか、精神的な不眠にも効用が望める、と記載されている。

腰痛だけではなく色々なツボを刺激することで体調を整えてあげるのかな、と何だかんだ言って閻魔を気遣っているらしい彼に微笑ましくなる。しかし鬼灯が簡単に素直になる筈はないということを、なまえはすっかり忘れていたのだった。

遠巻きに彼らを見守っていると、親指へ力を集中させるようにぐぐぐ、と指先を頭部に押し込む鬼灯を慌てて制止する。


「ちょ、ちょっと力入れすぎじゃありませんか?」
「このくらいしないと大王には効きませんよ」
「な、何か痛いけどこれ何のツボ?」
「昔ここを押すと下痢になるって迷信ありませんでした?」
「あったけどだからって何で押すの!?」


イライラするな〜とぼやく閻魔に鬼灯は苛つきを鎮める経穴に刺激を与える、というより爪を立てた。因みにそこは手首を通る動脈に近い箇所だ。
ぶしっと音を立てて血が噴出すその様を見かね、抑えるように鬼灯の腕をぎゅっと抱えた。
ぴくりと肩を揺らした鬼灯を見上げて懸命に訴えかける。


「さすがにやりすぎですって!」
「…大王は亡者なのですからいいじゃないですか別に」
「だめです、死なないからこそ辛いことだってあるでしょう?」
「……」
「おお、大人しくなった…さすがなまえちゃん!」


むっすりと唇をへの字に曲げる鬼灯をなだめるように腕をさすると、彼ははぁ、と深く息を吐いた。
閻魔はなまえがまるで菩薩のように見えたのか、きらきらと目を輝かせてこちらを見つめる。それを横目に気を取り直したように鍼を取り出した鬼灯は、くっと顎を持ち上げて見下すような瞳を彼に投げた。


「やっぱり鍼やりましょう鍼」
「まだやるの!?もういいよ、医者呼んでよホント……ほらワシがいないと仕事に支障が出るでしょ!?」
「いや仕事くらい私となまえが徹夜でちゃっちゃとやってあげますよ」
「支障が出ない!?」


閻魔の傍に屈み込み、彼を刃物のような鋭い視線で射抜く鬼灯はさながら不良のようだ。

よほど鍼治療がしたかったのか、それとも閻魔をいじめ抜きたかったのか……、恐らく後者だろう。鬼灯は手際良く様々な道具を取り出した。
毫鍼という軽く叩いて刺すものや数日間皮膚の中に刺したままにする皮内鍼、皮膚の表面だけを刺激する接触鍼。そして。


「ひ避雷針…」
「なまえ、危険ですよ。こちらへ」
「そんな危ないもの使わないでよ!」


鬼灯がなまえの腕を引き、肩を抱き寄せると同時に逃げ出そうとする閻魔にコイルを通して電流が貫く。
逃げ惑う閻魔の腰を正確に膝で突く鬼灯に、多少意地悪が過ぎるけれどやっぱり治す気持ちはあったんだなぁ、と唇にやわい微笑みを乗せた。
くすくす笑うなまえを鬼灯はちらりと目をやったあと、知らぬ振りを決め込むようにふいっと顔をそらす。


「大王、閻魔大王」
「え?」
「痛み和らぎましたか?」
「…アレッ?」
「さっき何気なく矯正してましたよ」
「…見た感じ脊髄すべり症によるぎっくり腰のようでしたので」


こくり、となまえに頷きながらそう呟く鬼灯に閻魔は感激したような表情を浮かべる。が、彼が続いて口にした色んなツボを刺激しました、という科白になまえは一抹の不安を覚えた。
上げて落とすのが得意だからぬか喜びじゃなければいいけれど、と眉をひそめる。


「へえ!じゃあそのうち色んな効果が……」


朗らかなその笑顔と明るい口調がぴしりと固まり、ぐるるる、と不調を訴え始めた閻魔のその立派な腹に、なまえのかすかな懸念は残念ながら現実となったのだった。


翌日。いつもなら閻魔が鎮座している席には鬼灯が居り、隣にはなまえが控えていた。
そんな姿を見て、亡者を抱えていた唐瓜と茄子は訊ねる。


「閻魔大王は…」
「申し訳ございません、今寝込んでまして……下痢で」


あの経穴に刺激を与えると腹を下すというのは迷信だった筈だけれど、鬼灯の手にかかればそんな迷信もうつつと化してしまうらしい。
何はともあれ、偶にはこんな日があっても良いと思う。仕事も早く終わるし、と思い巡らせつつ、寝床で身動き出来ずにいるだろう閻魔に心中で謝罪した。


「大王がいないのも偶にはいいですね」
「でも下痢なんてお辛いでしょう…?」
「いい薬ですよ。ここからの景色も良いものですし…なまえも隣にいますしね」
「………いつも隣にいるじゃないですか」


どこか甘やかな眼差しが降り注いで、頬をくすぐるようなそれに気恥ずかしさを覚えながら言葉を返す。
ほんのりと桜色に染まるなまえの耳を、頬杖をついて愉しげに見やった鬼灯は時折閻魔にはこうして退場してもらおう、とひそかに思考を揺らめかせたのだった。


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