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「「あ」」


此処は天国、高天原デパート。そこでまさか鬼灯と鉢合わせることになるとは。ぴたりと重なった声になまえは思わず口元を引きつらせる。
なまえは休みを貰っていたので今朝1人仕事へ赴く鬼灯を見送り、掃除洗濯その他家事の一切を済ませて天国へと足を伸ばしたのだが、思いがけずこんなところで彼と出会うとは思っていなかった。

いや普段ならば出先で鬼灯と顔を合わせるのは何とも嬉しい偶然だ。が、簡単に喜ぶ訳にもいかない事情を抱えていた。
というのもなまえの隣には彼の天敵とも言うべき神獣がこれでもかと鬼灯を睨みつけているし、鬼灯の一歩後ろには困ったように笑うお香の姿があったからだ。
何より鬼灯の額に静かに走る青筋が恐ろしい。


「ぐ、偶然ですね…!」
「…なまえ、貴女が休日に何をしようが自由ですしそこまで口を出そうとは思いませんが……何故、隣に白豚を従えているのです」
「それは…その…」


苛立ちを隠すことなく言い募る鬼灯に、なまえは怯えたように眉尻を落とすと少し後退った。暗になまえを責めているようなその言動にきゅっと唇を引き結ぶ。
そんな彼女を庇うように一歩前に踏み出したのは白澤だ。女性に向ける優しい眼差しを一寸ほどものぞかせることなく鬼灯を見据える白澤の背中に隠れるようにして、なまえはその白衣を掴む。
ぴくりと肩を揺らした鬼灯は白澤に目をくれることもなく、その後ろで縮こまるなまえを射すくめていた。

白澤に縋るように添えられたなまえの手が、気に食わない。彼女を背後に隠してどこか優越に浸ったような表情を見せるこの忌々しい神獣も、野次馬精神を露にして立ち止まる群集も、何もかも。どろりとした黒い何かが、鬼灯の胸を取り巻いているような感覚に襲われる。

わかっている、これは嫉妬だ。認めたくはないが、あの白澤に向けているのは見苦しい妬みの心。恋だとか愛だとか、そんなあたたかく日向の差したような想いに影のごとく付きまとう厄介な感情。それが心に人一倍色濃く落とされる性質なのは十二分に自覚している。他の男がなまえの隣に立つことさえ、本当は許したくないのだ。
ぐっと眉間の皺を深く刻んだ鬼灯に気がついたなまえが口を開くより早く、なだめるようにその腕を引いたのはお香だった。


「ここじゃ何だし、皆で喫茶店にでも入りましょう、ね?」
「…そうですね」
「……」


つきん、と胸を走る苦い痛みは、なまえの心をじわじわと蝕んでいく。鬼灯の心のうちを理解しているようなお香の行動が、それを当たり前のように受け入れる鬼灯の瞳が、ひどく重たい想いをなまえの中にうみ落として、ぐるりと心に渦巻いていく。
その痛みにすべてを飲み込まれてしまう前に、救いの手を求めるようになまえは白澤の手を取った。

息が詰まる。喉元に空気の塊がくしゃくしゃにねじ込まれたような、奇妙な感覚。
何だかよくわからないが、此処が急に息苦しくて仕方がなくなった。一秒でも早くこの場から立ち去りたかった。2人の声が届かない所まで逃げてしまいたくなったのだ。


「白澤様、早くどこかに行きましょう」
「え?……うん、じゃあ僕のおすすめの甘味処に連れてってあげる。なまえちゃん甘いもの好きだよね」
「わぁ、楽しみです」
「なまえ、まだ話は終わっていません」
「白澤様とは偶然会ったんです、やましいことは何もありません。…鬼灯さんたちはどうか知りませんけど」
「なまえちゃん違うのよ、仕事でね…」


お香の言葉にも反応を示さず、かすかに研がれた眼差しを投げられて鬼灯は軽く目を見開いた。
こんな風に刺々しい言い回しをするなまえも、彼女の鋭い目を見たのも初めてだった。

きゅっと眉を寄せて苦しそうに歪められた瞳をゆらして、鬼灯を視界に入れることもままならないようにふいと顔を背けたなまえに白澤とお香は視線を交しあう。
いつもならなまえが折れるか鬼灯が無理にでも彼女をさらっていってしまうところなのに、何故かお互い意固地になっているらしいふたりに白澤はため息をついた。
本来ならば諸手をあげて喜ぶのだが、彼女たちが仲睦まじくないとどうにも調子が出ない。
妙な気分だ、と白澤は首を傾げながらなまえたちを眺める。


「えっと…じゃあアタシ先にお店入ってるわね」
「あー、じゃあ僕も」
「…白澤様」
「おいお前、なまえちゃん泣かせたら承知しないからな!」
「……」
「……」


場を取りなすように告げたお香に便乗し、ぽんと元気付けるようになまえの肩をたたいた白澤はくるりと背を向ける。
まさに冷戦状態、という単語がぴったり似合うなまえたちを残し、そそくさと去っていく白澤とお香を横目に鬼灯は俯いたままのなまえを見つめた。

力なく項垂れたなまえの頭に触れようと持ち上げた手はふらりと宙を彷徨ったあと、彼女の体温を知ることなく下ろされる。
てっきりいつものように優しく髪を梳く指先をくれるのかと思ったなまえは、わずかに瞳を大きくした後まぶたを伏せた。

馬鹿みたいに意地を張ってしまったのは、鬼灯がお香を連れていたからではない。

悲しかったからだ。

確かに2人を見て何かちりちりと焼けつくようなものを感じたけれど、それだけならひそやかに胸の中に仕舞っておけただろう。
でも、鬼灯がなまえのことを信じていないような気がしたから。
白澤と不仲なことも原因のひとつなのだろうけれど、それ以前になまえが気変わりなんてする筈がないと、そう思ってくれなかったことがたまらなく悲しかった。


「鬼灯さんは私のこと、信じてくれないんですか…?」
「…なまえ」
「私は鬼灯さんのことだけが、すき…なのに…」


じわりと瞳を包んでいく水の膜をこらえるようにくっと唇を噛みしめる。ゆっくりとなまえに近づいた鬼灯は、俯きがちな彼女の頬にそっと手を添わせて顔を上げさせた。
なまえの瞳を覆う涙がゆらゆらと震えて、今にもこぼれ落ちそうなそれを懸命に堰き止める彼女がいとしかった。


「…すみません、信じていない訳ではないのです」
「……え?」
「私は貴女のことになると、どうも抑えがきかなくなる様です」
「鬼灯さん…」
「これは心持の問題なのだと…思います。信じていても不快な物は不快です」


鬼灯にしては珍しい、つたなく紡がれる物言いから彼も己の感情に戸惑っているのだと思った。
それでもなまえの肌の感触を愛でるようにするりと頬を滑る鬼灯のぬくもりからは、直向きに彼女を想う心がにじんでいる。

鬼灯からもれた思いがけない科白と肌に触れる体温にとくん、とくんと心臓が甘く音を立てる。ゆるい微笑みを唇に乗せたなまえに、鬼灯はすっと目を細めて口を開いた。


「まぁ、そういうことですので極力男には近づかないように。特にあの神獣には」
「もう、鬼灯さん!」


頬から手を離した鬼灯は、なまえのやわらかな手のひらを握る。何処にも逃すことのないように、しっかりと捕まえたその華奢な手がぎゅう、と自身のそれを握り返すのを感じながら眉間に寄せていた皺をそっとゆるめた。


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