袂にしまっておいたそれを取り出し、向かいで静かに味噌汁を啜る鬼灯をそっと見上げた。 大切に仕舞っておいたそれを渡す機会をうかがっていたなまえは、結局昼休憩にまでもつれ込んでしまったのだった。 常より遅れた休憩を取ることになったため、幸い食堂に居合わせる獄卒たちは少ない。 有難いけれど、しじまに満たされた空間に一際大きく心音が鳴る。 なまえの中心で存在を主張する心臓が五月蝿く、鬼灯に聞こえてしまわないかとひとり身を強張らせた。顔にまでじわじわと熱が集まってしまう。 お香に教わりながら完成させた刺繍入りのハンカチは、鮮やかな包装紙に包まれている。かさり、と乾いた音を立てるそれの縁を1度指先でたどった後、ゆっくりと口を開いた。 「あ、あの鬼灯さん」 「はい?……どうしたんですか、切羽詰まったような顔をして」 「えっと……あの…その、これっ…!」 大きく息を吸った瞬間、がつん、と腕に走る衝撃。緊張し切って命令通りに動いてくれなかった肘が勢いよくテーブルと衝突してしまったのだ。 その拍子に揺れた湯呑みを支えようと焦りながら伸ばした手は、これまたなまえの意志を無視してとどめの一押しをお見舞いしてしまう。 まだ半分ほど残っていたそれは重力に従って川のように流れ落ち、鬼灯の着物をみるみる内に濡らしていく。さあっと血の気を引かせたなまえはたたらを踏みながら鬼灯の元へ歩み寄った。 「ごめんなさい…!あ熱くないですか!?」 「冷めていたので大丈夫ですよ。それより、食事のマナーから教え直した方が良いようですね」 「す、すみません………あの、これ」 「…これは?」 「ハンカチです、良かったら使ってください」 なまえのやわい手のひらから包みを受け取った鬼灯は小さく首を傾げた。まだ包み紙を着たままのそれは開封すらされていないもののように思える。 彼を見て封も開けずに手渡してしまったことに気がついたなまえは、慌てて鬼灯からハンカチを返してもらおうと手を伸ばした。 「すみません、今開けますね」 「いえ、これは誰かに贈る物でしょう。手ぬぐいくらい持っていますよ」 「あ」 なまえが止める暇もなく、鬼灯は自身の懐から探り出した手ぬぐいを水分をふくんだ部分に当てていく。 ひとしきり拭い終わった鬼灯が視線を上げると、しゅんと眉尻を垂れさせたなまえを視界に捉え、呆れ交じりに吐息した。 鬼灯のため息にびくりと肩を揺らしたなまえはますますしょんぼりと身体を縮こまらせていく。 「何落ち込んでるんですか」 「鬼灯さんの着物を汚してしまって……1人で緊張してバカみたいで…」 「幸いお茶でしたし、粗相くらいで怒りなど感じません。 まぁ、躾は必要みたいですけど」 「もう、犬じゃありませんってば!」 「………」 「……ふふ、」 しおれたなまえを鬼灯なりに励まそうとしたのか気を逸らそうとしたのか、冗談めかした科白を寄せられて思わず笑みをもらしてしまう。 可笑しそうにくすくすと笑うなまえの頭を優しく小突きながら、鬼灯は贈り物と思しきそれに目を落とした。 「で、これは誰に贈るつもりだったんですか?」 「え?」 「なまえに意中の方が居たなんて驚きました」 「いえそれは…」 「誤魔化さずに話してください、さあ」 「ほ鬼灯さん?」 仏頂面を一層しかめてじっとこちらを射すくめる鬼灯に二の句が継げずにいると、彼は静かな所作でなまえに身を寄せた。身体が触れ合いそうなほどの距離と射すくめるような眼差しに囚われ、身動きひとつ取れない。 まぶたをまたたかせてふらふらと視線を彷徨わせていると、頬を両の手のひらでぎゅっと挟まれて半ば強引に目を合わせられる。 なまえよりかすかに低い鬼灯の体温がじわりと肌に溶けて、ぬくもりがひとつに重なる。 鬼灯は頬にほんのりと熱をためたなまえに瞳を細めた。 「答えられないんですか?」 「う、その…それは鬼灯さんに贈るつもりで」 「………私に?」 「はい」 こっくりと頷いて首をすくめたなまえはどこかくすぐったそうに唇をゆるめる。 呆気にとられたような鬼灯の視線に気恥ずかしさを覚えたのか、目を背けたなまえは頬を捕らえたままの大きな手にそっと触れ、口を開いた。 「あの、だから放して頂けると…」 「……ああ、すみません」 「…こ、こういうのなんか恥ずかしいですね…!」 なまえはじゃれ合うように触れられることに未だ慣れないらしい。恥ずかしさをはぐらかすためか頬を火照らせたまま真正直に言葉を落としてしまう。 それにわずかな面はゆさを感じ、鬼灯は彼女を叱るように長い指先でそのやわい頬を戯れに抓んだあと、丁寧に包まれたそれを持ち上げた。 「…開けてみてもいいですか?」 「あっどうぞ!」 丁寧な仕草で紐解いていく鬼灯を固唾をのんで見守るなまえの様子を一瞥しつつ、手元に目を戻す。 現れたそれは几帳面に折り目をつけられ、指を当てると質のいい布地が肌を撫でた。 その白地に目を引く朱色が一匹隅に繕われているのを見て、彼は小さく目を見開いた。 既製品としては少し縫い目が荒く、尾の裾を縁取る曲線はわずかにいびつだ。 しかし何故か胸が浮つく、あたたかみのあるかたちをしている金魚。 なめらかな感触をしているそれを慈しむように愛撫した鬼灯は、強ばった面もちでこちらを見上げるなまえに瞳を注いだ。 「もしやなまえが刺繍したのですか?」 「やっぱりわかっちゃいましたか…。尻尾のところとか難しかったんですけど、気に入りませんでしたか…?」 「いいえ、綺麗に出来ていますよ」 「う、うそです、刺繍なんて久しぶりだったし…」 あまり鬼灯からまっすぐに褒められたことがないからか、それとも謙遜か。もごもごと口ごもりながら何やら呟いているなまえは耳たぶを淡い朱色に染める。 それが小さな池で泳ぐ愛らしいそれと重なって、鬼灯はまぶしそうに目を眇めた。 手の中にある真白い水面に身をゆだねる金魚は、様々な想いを乗せてそこに沈んでいる気がした。 やわらかであたたかくて、優しい想い。心がふわりと軽くなるような、そんな感覚。 抽象的で不確かだけれど、それは鬼灯の中心に確かに届いてじんわりと広がっていく。 心と共に、ふっと口元が和らいでいくのが止められなかった。 「…!」 「………」 「……ほ鬼灯さん、今」 「何ですか、幽霊でも見たような顔をして…まぁあながち間違ってはいませんが」 「いえ鬼灯さんさっき、」 「何も見てないですよね?」 「え」 「なまえは何も、見ていない。そうですね?」 「ははい……」 笑みとも呼べぬおぼろげなものだったが、やんわりとほどけた口元をはっきりと目にしたのだ。 それを指摘しようとつむいだ言葉は鬼灯にぴしゃりと否定されてしまった。 どうしても認めたくないのか、態とらしく般若のような表情で顔を飾られてはなまえも頷くしかなく。 あの器からこぼれ落ちた一雫のような微笑は、 なまえの胸の中へ大切に大切に抱かれることとなったのだった。 「…何にやついてるんですか」 「にやついてるだなんてそんな、いつも通りの笑顔です!」 「いいえ、にやにやしています。やらしいですね、一度頭をぶつけて頂いて記憶を……」 「ちょ、ちょっとやめてくださいっ鬼灯さんが言うと冗談に聞こえませんから!」 「誰が冗談だと言いました?」 じりじりと距離を詰めていく鬼灯になまえも一歩ずつ後ずさった。 2人の戯れを眺めていた獄卒は仲がいいなと感心し、カウンター越しになまえを見守る無口な彼はあえかに微笑む。 なまえを捕らえようと伸ばされる無骨な手を寸手の所で避けながら、彼女は屈託なく笑ったのだった。 |