身の保全を、確保せよ──
夕方までは、病院に戻ってみたり(傍についてた銀ちゃんは相変わらず気づかず)普段あまり真面目に聴いていたとは思えない授業を、わざわざ聴きに行ったり。我ながら充実した時間の使い方だったんじゃないかと、自画自賛してみる。
今日はもう、総悟には会えないかと思っていたのだが。やっぱりもう一度、と欲望に忠実になることにした。学院では見つからなかった……ということは、多分自宅の方に違いない。
「とりあえず行ったもん勝ちアル!」
ウキウキした気持ちで、低空飛行してみたり蛇行してみたり。沖田邸の前で、見えないのをいいことに好き放題飛んでいく。
そこに、高そうな黒塗りの車が入ってきた。運転しているのは──。
「あ、ゴリ。……じゃなかった。院長アルナ」
また総悟の前でうっかりゴリラ呼びしようもんなら、今度こそ嫌われかねない。今から気をつけておくに越したことはないはずだ。
トランクから荷物を出したりして忙しそうな院長を見ながら、ひとまず私は予定通りに総悟の部屋へ。灯りが付いてるのを確認し、総悟がいることに安堵した。
「そーごっ!」
部屋に飛び込んでいくと、いきなりタキシード姿の総悟と対面し。興奮の余り、ほわぁーっ! と奇声を上げてしまった。
「な、生タキシードぉっ!!」
「……アホか、てめーは。なんちゅー声出してんでィ」
「だって、コンサートとか行っても近くで見たことなんてなかったネ! その前に滅多に行けるもんでもないし。そーごのコンサートはチケット代がバカ高いアル……」
「まあ、クラシックは高いのが相場だからなァ。だからって訳じゃねェんだけど、今日は大学のオケ(オーケストラ)の定演にタダで客演。もちろん、聴きにくるだろ? 今の神楽なら、何処ででも聴き放題だぜ?」
「い、行くアルー!! えぇっ、だって客演の情報とか全然知らなかったネ……。急に決まったアルか?」
興奮しっぱなしだった私のテンションが落ち着いてきたのを見て、総悟は無造作に置いてあった楽譜の束を掴み取る。
「シークレットゲスト、ってヤツ。関係者以外で教えたのはお前が初めてかもなァ」
「ふぉわっ!? そうだったアルか……」
大学の定演なんて、チケット買ってなかったし。大体総悟が出るって知らないんじゃ、悪いけど行く気も起きない。考えようによっては、こんな体になってラッキーだったんだろうか?
「──さて、と。んじゃ、俺は行かなきゃなんねーから。一緒行くだろィ?」
「ウン!」
「いい返事じゃねーの」
あ、総悟が嬉しそうだ。何か、私も嬉しくなってきたかも。その気分のまま、クルクル調子よく身体を浮かせると。
「パンツ見えんぞー、バカグラ」
「ぎゃっ! ドスケベ、変態っ!」
「ぎゃっ、って……もっと女らしい悲鳴はねーのかよ」
ぶっ、と吹き出す総悟に、当たらないけど殴る真似をして。
何か、こういうやり取りに幸せを感じてしまう不謹慎な自分を、少しだけ反省したのだった。
廊下に出た総悟の後ろをフワフワ着いていく。相変わらず豪華に見える螺旋階段が眼下に広がっていて。
慣れた足取りで降りていく総悟の向こう側に、ちょうどリビング側から出て来る院長の後ろ姿が見えた。
「近藤さん! 帰ってたんですね?」
「おう、総悟! 元気にしてたか!?」
豪快に笑う院長からは、人柄の良さがにじみ出ている。そこへ早く辿り着きたいのか、総悟の速度がさっきまでよりアップした。
──あれ?
駆け降りていく総悟の足下。下の段の方に、キラリと光る……何か。
落ちてるモノ? でも、よく見えない。ちょうど、下から10段くらいのところだろうか。何かの、破片? それとも、液体?
「そーご! 何か落ちてるから気をつけるネ!」
「……うわっ!?」
私が叫ぶのが遅かったのか。総悟が気づけなかったせいなのか。
──滑って、総悟はそのまま、足を踏み外して、落ちて、
「そーご!!」
ダメだ、間に合わないっ!!
ぎゅっと、目を瞑った瞬間。階段に向けて高速で走り出す影が、暗くなった視界に映し出された気がした。
「大丈夫か、総悟っ!?」
「は、はい……焦りやした」
ああ、院長が総悟を助けたのか。一転、安堵の溜め息をついて、目を開くと。絶妙なタイミングで階段下に滑り込んだのか、半分寝そべった形で総悟を抱き止めている院長が見えた。高そうなダークグレイのスーツが、完全に皺になっている。
「すいやせん。近藤さんの顔見たら、走り出しちまったんでさァ。まさか、こんな滑るとは思いやせんでした」
「お前なぁ〜。笑い事じゃないだろう! こっちは間に合わないんじゃないかと肝を冷やしたんだぞ!?」
「……ホント、すいやせんでした。それと、助けてくれてありがとうございます」
「いや、とにかく総悟が無事でよかった。そういや、お前これから演奏するんだろ? 指傷めなかったか!?」
「はい。近藤さんのおかげで何ともないです」
心の底から、安堵したような笑顔を見せる院長。総悟も、少年みたいな純粋な顔つきになっていて、院長に心を許しているのが良く分かる。
「よし! 会場までは俺が車で送るからな。いくら近いといっても遅刻しては大変だろう?」
「えっ。でも、近藤さんだって海外から戻ったばかりで疲れてるんじゃないですか?」
「いいっていいって。俺は体力だけはあるからな。それに、総悟の為になるんなら幾らでも動けるってもんだ!」
「近藤さん……」
じゃあ車回して来るから、と言い捨て、総悟の返事も聞かないで外へ飛び出していった。何ともまあ。こうして端から見ていたら、随分総悟を溺愛してるようだ。義理の従兄に当たるんだっけ? 年の離れた弟みたいな感覚なのかもしれない。
「あ〜。悪ィな、神楽。さっきからほったらかしで」
「ん。別に気にしてないアル。院長がいたんだから仕方ないネ。……にしても、私も焦ったアル。ケガしなくて、ホントよかった」
「だよなァ。今朝も話したけどさ、マジで最近こんなんばっかなんだって。さすがにこんだけ続いて起きると、いくら俺でも参るな」
「当たり前ネ! 総悟、やっぱりおかしいヨ。こんなのに慣れてちゃ、身体が幾つあっても足りないアル……」
「確かにそうなんだけどさ……。あ、近藤さん来たみたいだ。神楽も一緒に行くか?」
「あ〜。私は後から行くネ。会場って、学院の大ホールだよナ?」
総悟に手を振り、車に乗ったのを確認した後。さっき見つけた、階段の"何か"を見に戻った。どうしても、アレが何なのか見ておきたかったのだ。
そう。確か、下から10段くらいで……光って見えて。そうだ、ちょうどこの辺。
「えっ!! な、何これ……?」
階段の縁、って何ていうんだっけ? よく滑り止めとか付けたりする、あの部分。そこに、何で、よりによって──滑りやすい、蝋(ろう)みたいなものが塗られているの!?
愕然と、階段を見つめている私の背後に。クスクス、と笑い声が響いてきて、その声の無邪気さに毒気が抜かれたような感覚を覚える。
「誰っ……」
振り返ってみれば、バッチリメイクにブランドモノのかっちりした高そうなスーツを着こなしていながら、その表情は幼い少女のような……。
「理事長、だよね?」
私の知る理事長は、モデルばりのキャリアウーマン的な、超美人。確かに、見た目はその理事長なのに……何なんだろう、この違和感は。
「あらあら。危ないわねぇ?」
キレイに施されたネイルアートの指先。それを気にするでもなく、蝋の塗られた階段の縁をカリカリと削り始めてしまった。クスクス、楽しそうに微笑いながら。
何故、微笑いながらそんなことをしているのか。そもそも、どうして蝋が塗られていたのを知ってるのか。そして、私の知る理事長の印象からかけ離れたこの姿──。
「ふふっ。可愛い総悟……。ねぇ、周平さん。ねぇ、桃子?」
クスクス、ふふふ。誰もいなくなったお屋敷に響く笑い声は、不気味にすら思えて。暫くそこから動けなかった──。