恋愛
何度招かれても、アガーテ様の部屋はなにもかもが魅力的だった。
最初に招かれた時はろくに歩くこともできなかったのが懐かしい。
豪華なティーセットやお菓子に恐れ慄き、ガクガクと身体が震えたのは過去のことで、今ではここで過ごす時間がとても安らぐ、大切なものになっていた。
初めて会ったあの時に、アガーテ様が自分とお話したいと言ってくださって本当に良かったと思う。
…しかし、今日は「とても安らぐ時間」とはいかないようで、私は初めてこの部屋に来た時のように身体を震わせていた。
緊張のためではない。
アガーテ様が、ニコニコと笑っていらっしゃるのだ。
何度も、同じ質問を繰り返しながら。
「メイは、サレのことが好きなのですね?」
…どうして何度否定しても聞く耳を持たないんだこのお姫様は。
「サレには本当にお世話になっているし…嫌いではありませんが、アガーテ様が期待しているような感情は抱いていません」
先程の廊下でのサレとのやり取りを思い出す…
至近距離で見たサレの顔。
確かに、心臓はドキドキしていたし、身体も思うように動かなかった。
あのままアガーテ様達が来なかったらどうなっていたのか
…なんて考えも、すぐに打ち消した。
心臓がドキドキしていたのは、ミルハウスト将軍に剣を向けられたからだし、サレを怒らせてしまったからだ。
サレとのやり取りに胸をときめかせたなんて、そんなことは…
少なくとも、私達の関係はアガーテ様の思う甘くてキラキラした砂糖菓子のようなものではない。
唇を重ねたり、優しく抱擁したり、頬を赤らめたり、甘い言葉を囁くものではないのだ。
もっとこう、床が割れたり、手首を捻りあげられたり、地面に這いつくばったり、身体が悲鳴を上げるような訓練を仕込まれる…
例えるならば、スパイシーでデンジャラス。泥まみれの傷だらけ。
口の中は砂の味だ。
サレや他の四星との厳しい訓練を想い返し、愛ゆえに厳しく指導にあたるワルトゥとミリッツァは別にしても、サレに対して甘い感情など…と、だんだん思考が冷静になっていく。
「サレは冷たく残忍だとよく言われていますが、メイに対する態度はどこか愛情があるように思えるのです。」
しかしアガーテ様は、いくら私がきっぱり否定しようと、さっきからずっとこの調子だ。
ジトーっと湿っぽい視線をアガーテ様に送りつつ、わざと行儀悪くクッキーをバリバリ噛みしめる。
そんな私の様子を見て、アガーテ様はますます楽しそうに笑う。
「色恋沙汰無しに男女が人目を忍んであのような場所で何をしていたのか、問うつもりはありませんが…」
「違います。全然違います。人目を忍んでなにかをしようとしていたわけではないのですよアガーテ様。まずそこからが違います。」
夢見るようにうっとりとした口調で語るアガーテ様を遮り、極めて冷静な口調で訂正する。
もう何度も同じ話題が繰り返し堂々巡りになっているので、もう冷静な口調にならざるを得なかった、というのが正しい。
「違うとは…何か理由があってのことだったのですか?」
アガーテ様は、うっとりと細めていた目を今度は丸く見開き、首を傾げる。
上品でお淑やかなのに、反応が正直で多彩で、まるで幼い少女のようだ。
「いつものように訓練から逃げていたら、ミルハウスト将軍という人に不審者と間違えられて捕われてしまうところをサレが助けてくれたんですよ。
当然逃げた私を探すのに散々手間を掛け、挙句正規軍の将軍に捕まるところだった私を見たサレはカンカンに怒っていたので、あそこで説教されていたというわけです…」
国王の部屋に近づいたこと、そこで見聞きしたことは伏せておいた。
アガーテ様ですらめったに入ることのできない国王の部屋へ近寄ったことを告白する勇気は無かった。
国王が自分のことを気に掛けていたというのも、気のせいかもしれない。
ここで王女様へ相談を持ちかけるような事項ではないことは確かだ。
『わずかな訓練だけでそれだけの力を出し切れるとはたいしたものだと、私は安心したのだよ』
国王の言葉が、頭の中を巡る。
ヒューマの少女で、フォルス能力者だから
フォルス制御ができるから
記憶喪失だから
そういった意味で、国王が自分に興味を持つのは、おかしなことではない。
しかし、「安心」というのは、一体どういう意味だろう。
一国の王が私のようなただの小娘に抱く感情としては「感心」「驚愕」のほうが一般的に正しいように思える。
安心するということは、やはり"一般的な意味ではなく"気に掛けているということで…
「そう…ミルハウストが…」
アガーテ様の一言で、現実に引き戻される。
すっかり呆けていたと焦ってアガーテ様を見やると、彼女もまた何か考えに耽っていたようで、ティーカップに手を掛けたまま動きを止めていた。
「あ、ミルハウスト将軍ですか?責任感が強くて誠実そうな人でしたね。御顔も整っていらっしゃったので最初は天使かと思ったくらいです。」
「そ、そうですね。とても…素敵な男性だと思います」
アガーテ様の言葉を汲み取り、話題をミルハウスト将軍へ移す。
私の言葉を受けると、アガーテ様はティーカップに掛けた手を膝元へ戻し、頬を桜色に染めて俯いた。
…なんてわかりやすい方だろう。
とても素敵な男性だと思う、なんて言いながら頬を赤らめれば、さすがの私でも気が付く。
「アガーテ様?」
アガーテ様の顔を覗き込みながら問うと、アガーテ様はちらりとこちらを見て、視線を泳がせた後また俯く。
「な、なんですかメイ、どうしてそんなに楽しそうなのです?」
動揺して声が震えている。
先程とまるで立場が逆だ。
ただ、先程は問われた私が全く動じなかったのに対し、アガーテ様はもじもじと視線を泳がせて、ニヤニヤと笑う私を見ては更に頬を染めるのだ。
可愛らしい。実に可愛らしい。
恋をする乙女の反応とはまさにこれ。
私のものとは全く違う。
見ているだけで喉が焼けつくように甘くなる。
気を抜いたら砂糖を吐いてしまいそうだ。
転んで土を吐き出している私とは大違い。
「アガーテ様は、ミルハウスト将軍のことが好きなのですね?」
わざと先程私にアガーテ様が尋ねたのと同じ口調で、アガーテ様に尋ねる。
途端、アガーテ様は顔を真っ赤にしてこちらを見上げる。
瞳は驚きで見開かれ、興奮で潤んで眩しいほどキラキラと輝いている。
頭上の猫耳はぴょこんと立ち上がり、湯気が上がっているのが見えそうだ。
薄青色のドレスを固く握りしめ、しばらく何か言いたげに口を薄く開いていたが、息を一つ吐くと同時に、驚きで固くなっていた身体から少し力を抜く。
ピクピク震えていた猫耳もしんなりと垂れ、ドレスを握りしめていた手は火照った頬を抑えた。
ひとつひとつの仕草が本当に可愛らしくて、目の前にいるのが一国の王女様であることを忘れて抱きしめてしまいそうになる。
しばらくそのまま瞳を閉じて深呼吸を繰り返した後、アガーテ様はやっと口を開いた。
「そうですね…もう、メイには半分、相談に乗ってもらっているようなものですから…。ここまで来て無理に隠す必要もないでしょう」
「半分…ですか?今までこのような色恋話をしたことは無かったはずですが…」
アガーテ様の言葉に首を傾げて問う。
お互い、年頃の少女のようにキャッキャと恋の話に花を咲かせる状態でも身分でも無かったので、色恋沙汰が話題に出たことは無かった。
傍らは一国の御姫様、傍らは記憶喪失の訓練中フォルス能力者。
恋だ愛だと騒げたものではない。
「私は、日頃から自分の容姿について、貴方に意見を求めることが多い…それは自覚しています。そして、それがどうしてなのかも、自覚しています…誤魔化すつもりはありません。」
『…私の容姿について、どう思いますか?』
それは、初めてのお茶会で、突然投げかけられた問い。
当時は質問の意味が分からず、ひどく動揺したが…
今、その意味がわかった。
『ヒューマの方から見た私は、どう映っているのか…』
『種族の違いが怖い…』
眉を寄せ、悲しそうな声色で呟いたアガーテ様。
全ては、ミルハウスト将軍のことを想っての問いだったのだ。
「…身分も種族も違うのに、それでも好きになってしまった。こんなにも切なくて、苦しくて、愛しいのです。あの人のことを想えば夜も眠れず、姿を拝見するだけで胸が高鳴り、声を聞けば顔が赤く染まり、最初は何かの病気なのだと思った程…ミルハウストは、私にとってそんな、特別な存在なのです。」
今までは同じ年頃のヒューマが傍に居なかったために、誰にも問うことができず胸の内に仕舞われた不安。
『…興味があるわ。サレ、後程その少女を私の部屋へ連れてきて頂戴。』
初めて私を見た彼女が何故私に興味を持ったのか。
その理由は、姫と崇め称えられる少女の、年相応の恋心だったのだ。
「メイとサレは、身分も、種族も同じです。自由に愛し合うことができます。咎める者は居ないでしょう。
それが私は羨ましくて、このようにメイとサレの関係に興味を持つのでしょうね…」
アガーテ様は冷めた紅茶を見つめ、目を細めながら呟いた。
自分自身の叶わぬ恋を憐れむかのように。
「こんなに強く、人を愛し、想っているからこそ、アガーテ様は美しいのだと、私は思いますよ。
…前にも同じようなことを言ったかもしれませんが、その心に種族も身分も関係ありません。」
私の一言に、アガーテ様はティーカップから顔を上げた。
顰められた眉と潤んだ瞳から、彼女の深い不安が窺えて痛々しい。
思わず私も視線を落とし、先程のアガーテ様のようにカップの底に残った紅茶を眺め、更に言葉を続けた。
「私には種族や身分がまだ深く理解できていませんが、それがそんなに大切なことだとは思いません。確かにアガーテ様はいずれこの国を統べる大切なお方で、高い身分であることは間違いありませんし、それを冒涜するつもりも貶すつもりもありません。
しかし、アガーテ様がミルハウスト将軍を想う気持ちは、そういった区切りに隔たれるものではないと思うのです。
同じ種族を想うこと、ふさわしい身分の者と恋をすることが、今のアガーテ様の気持ちよりも大切だとは、私は思いません…。」
今までひっそりと想い悩んだアガーテ様を思えば思う程、言葉が転がり出てきて止まらなかった。
しかし、すべて語り終わった後、余計なことを言ったのではないかと心配でアガーテ様の顔を見ることができなかった。
知ったような口を聞くなと怒りに震えていたら?
言葉ではなんとでも言えると、涙を瞳いっぱいに貯めていたら?
不安で筋肉が硬直して動けない。
本当に、時々自分の世界に籠って考え込んだと思ったら、自分の言いたいことをすぐ口に出す癖をなんとかしなければ。
しかも考え込んだ末に口から出る言葉は考え足らず…
これではいつか絶対痛い目を見るであろう。
「メイには、本当にいつも励まされます。最初に容姿に対する問いも、貴方はそうやって常識や体裁も、種族や身分もを乗り越えた答えをくれましたね…」
アガーテ様はそんな私の心配とは裏腹に、穏やかな口調で呟く。
驚いて顔を上げると、アガーテ様は怒っても泣いてもいなかった。
ただまっすぐに、こちらを見ていた。
「確かにメイの意見は理想論ではあります。
違う種族同士の恋愛は、この世界では厳しい扱いを受けます。間に身籠った子供…ハーフも同様の扱いを受けるでしょう。
お父様が病床に伏せている今、恋愛ごとに現を抜かし、国を混乱させることも得策ではありません。」
自分の意見が幼稚であることはわかっていたが、凛と前を見据えて、淡々と語るアガーテ様を見ていたら、羞恥が込み上げてくる。
若干18歳。
されど、立派な王女様なのだと痛感した。
しかし、そんなアガーテ様の身体が小さく震えた。
「…現実は、そうなのだとわかっているのです。だからこそ、メイのような言葉を掛けてもらえるのが、とても嬉しくて…」
まっすぐにこちらを見つめていたアガーテ様の瞳が突然潤み、凛とした表情が歪む。
そのまま言葉を紡ぐこともできず、アガーテ様は俯き身体を震わせながら涙を流した。
薄青色ドレスに、涙の染みが広がる。
恋愛に興味を持つ年頃の、可愛らしい少女。
その身に背負った王女という役割の重さと、叶わぬ切ない恋心に、その胸を幾度も痛めて苦しんで、幾つの夜をこうして独り泣きながら過ごしたのだろう。
そう思えばたまらなくなって、思わず席を立ってアガーテ様の肩を抱く。
頬を濡らした涙をハンカチで拭ってあげると、アガーテ様は更に激しく泣きながら私の胸に顔を埋めた。
「少しだけこのままで居させてください…。」
涙混じりの声で小さく呟き肩を震わせるこの少女を、私は本当に愛しいと思った。
種族の違い、身分の違い。
それらは、自分一人の力で解決する問題ではないけれど
せめて自分は、アガーテ様の支えになりたいと強く思った。
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