〜翻弄する彼と彼女のセリフ〜
好きな人がいる。
相手は大富豪の一人息子。
広い敷地に大きなお屋敷。そこにわたしが使用人として雇われて早数年。その人は無愛想で、ちっとも笑わなくて、全然優しくないものだから、むしろ印象は良くなくて。それが変わったのは少し前、きっかけは些細なことだった。
多忙な父親を持つ彼の寂しさや、早くに亡くした母親への愛慕の情、そのせいか、もう人なんて愛さない。そう心を閉ざしている彼のことを、好きになってしまったの。
身分違いの恋、なんて小説の中だけのことかと思っていたけど。
それでも同い年ということもあり、使用人の割には随分親しくさせてもらっている。…本当ならきっとそれだけでも幸せと思うべきなんだろう。
「そこ掃除したら、コーヒー頼む。」
「はーい。」
「…お前な。少しは使用人らしくしたらどうだ。」
「これもスコールお坊ちゃまへの計らいです。堅苦しいばっかりだと余裕なくなっちゃいますよ。」
「…その呼び方やめろ、ってこの前も言ったろ。」
溜息と共に吐かれた文句はさておいて、慣れた手つきで書斎を掃除する。固く絞った雑巾で丁寧に。
「そういえばあんた、ひとつ聞きたいんだが。」
「……。」
「おい。」
「……。」
「おい。……ハーティリー。」
「はい、なんでしょう?スコールお坊ちゃま。」
彼がわたしに聞きたいこと、だなんて珍しい。
「……、この前の商談で纏まった例の企画なんだが。先方が若い女性をターゲットにしたいそうなんだ。」
―――商談。
それは名目上のもので、その中身は所謂お見合いというやつだそうだ。大企業と大企業が一つの企画を成し遂げるための政略結婚。大きな商談でも、お互いの身内を結婚させてしまえば容易く信用を得ることができる。
一瞬、心がぎゅっと締め付けられるような感覚。それを見て見ぬふりすると、雑巾を置いてデスクへと近づく。
彼が何やら分厚い書類を取り出した。
「そこで、だ。あんた…ハーティリーから率直な意見がほしい。」
本人は結婚についてさして気にしていないらしい。それもそうだ、彼は恋愛だとか結婚だとかに興味がない。ゼロだと言っても過言ではないほどに。
ただ、彼の父親、つまりここの屋敷の主人―――ラグナさんは違う。奥さんを本当に愛する人だったと聞いているし、実際屋敷に滞在している日は毎日お墓に手を合わせに行っていた。お花を添えて、優しげな笑みを浮かべていたところを何度も目撃している。そんなラグナさんを人として慕い、だからこそわたしはここに仕えて本当に良かったと思っていた。
そんな人が、いくら恋愛に興味がない息子とはいえ、まさか商談のために政略結婚の話を通すなんて。にわかに信じられない話だった。
「おい、聞いてるのか。」
「あっ、はい。」
「これに目を通してみてくれ。」
活字だらけの書類。本を読むのは好きだけど、こんな小難しい言葉ばかりの文字を追うのは苦手。
そう思いながらも差し出されたそれを受け取りぱらぱらと捲る。
「いつまでですか?」
「明日までに頼む。」
「ええっ?!」
「…出来ないなら他のヤツに頼むが。」
眉間に皺を寄せた彼に、首を横に振った。
「出来ます。けど、」
「けど?」
苦手なことでも彼の為なら、ラグナさんのためなら、この家の為なら労は惜しまない。
「一つだけ聞かせてほしいんです。」
「…内容によるが…、聞いてやる。」
大の男一人分をすっぽりと覆うようなふかふかの椅子がくるりと回り、こちらに向いた。座る彼は肘掛けに肘をついている。
「本当に、結婚の話をのむんですか?好きでもない人なのに?」
「…………。そんなことか…。ああ、どうせ遅かれ早かれ結婚するなら、少しでもこの家のためになる話の為にした方がいいだろう。」
…ねぇ、気付いてよ。ここに、あなたのことが好きな女がいることを。
「俺から金を取ったら何も残らない。それに、恋愛なんて一生出来そうにもないからな。」
自嘲気味に笑うその笑顔が痛い。
…ねぇ、気付いてよ。
「…どうしますか?」
「は?」
「もし、わたしが、」
「…?」
「好きだって言ったら?」
―――ねぇ、どうする?
目を見開いた彼に、わたしはいつもの笑顔に入れ替えた。
「なーんて。さ、コーヒー淹れますね!」
END
(叶いっこない、身分違いの恋。だからせめて残りの時間だけでも、わたしに翻弄されてください。)