>> 雪の降る街





ここは雪の降る街。凍えるような寒さの中で、それでも暖かい心を抱いて人々は生活している。ここは雪の止まぬ街。ネオン街を走り抜ける野良猫でさえ雪解けの大地を知らない。ぱちんと指を鳴らしたところで、この街に春は訪れないのだ。




二人が生活しているのは年中雪の降る街だった。この街の人間は誰も、この大地に雪がない様を見たことが無い。時折太陽が覗くこともあるが、それもほんの僅かだ。そんな箱庭のような街で、二人は出会った。


「…今日の晩御飯はシチューにしようか」
「俺はグラタンが食べたい」
「どうせホワイトソース残すからいいじゃん。明日にしようよ」
「ドリアでもいいかなぁ。クリスマスだろう?ケーキも買おう」
「案外乗り気だね。そういうのあんまり好きじゃないと思ってたんだけどな」
「祝う気分というよりは食べる気分だな」
「…まぁ、この国の意識には近いんじゃないかな。信仰心があるわけでもないし」


黒羽と工藤は片手に買い物袋を提げて、もう片方に傘を持って石畳の上を歩いていた。人参と玉葱と、と指折り数えて買った野菜ががさがさと音を立てて揺れる。この国では野菜は出来ない。この雪国では野菜は育たないからだ。どうにかして室内で育てている人間もいるが極少数の話で、大抵は輸入に頼っている。この国がどうにか輸入過多でも破綻せずに存在しているのは、「年中雪の降る古めかしい街」という希少さからくる観光資源と、豊富な地下資源のためだ。この街では観光客をどうにか集めるために全面的に中世風の建物を多く残している。街の足は馬車であったり、古めかしい風体をした車であったりするし、外界と繋がる手段は蒸気機関車であったりする。この街に住む人間はこれが当然であると認識しているが、残念ながら外界は文明革新が進んだ影響で古めかしいものは排除される傾向にあり、採算の取れない年代物は姿を消していっている。それ故この街のレトロな文化が貴重なものとして受け入れられているのだが。そして地下資源。世界の地下資源の半分程度はこの国にあると言われている。そのため各国から狙われ続けてきたがどうにか自衛手段を最大限行使して死守し、信じられないことにこの平和な時世までどの国にも属することなく中立の立場を堅守している。この国がいずこかの陣営に肩入れするようなことが仮にあったならば、世界は未だに総力を挙げて血生臭い戦争を続けていただろうと言われている。事実宗教観や価値観の違いからの戦争は止まない。これはもう、避けがたいものだ。誰とて相容れぬ感性を持ち合わせている。だがエネルギー戦争を回避することが出来たのは偏に、何があろうと中立を保ち、不当な交渉のカードとして国益を優先することのなかったこの国の善良な良識にある。そんな事象はあり得ないと思うかもしれないが、この国はそれをやってのけたのだ。王政を軸として、何代もその姿勢を崩すことなく強固な意志を王位と共に引き継いでいる。


話を戻そう。黒羽と工藤は街の中心地にあるレンガ造りのアパートに暮らしている。元はと言えば隣に同時に越してきた偶然から付き合いが始まり、工藤の仕事の関係上黒羽の家に転がり込み、それから適当な同居生活をしている。元より工藤の家は必要最低限の家具と足の踏み場にも困るほど床に散乱した本しかなかったが、今となっては工藤の家はただの本が溢れている仕事場として生活感の欠片もない空間になり、逆に黒羽の家は生活感に溢れた状態になっている。家具が増え床面積は幾分か狭くなったがどうにか工藤に人並みの生活を送らせることができるようになって黒羽としては非常に満足している。毎日ご飯を食べさせることが出来るし、睡眠時間も無理やりとはいえ十分取らせることも出来る。その上帰宅したときに誰かいるという生活が黒羽には何よりも嬉しかった。


「…いつかさぁ、この街を出たいと思う?」
「…何だ突然」
「突然じゃないよ。お前は本を書いているだろう?外の世界に出る時ももうすぐ来るんじゃないかって」
「それを言うならお前もだろ。この街で観光客相手にマジックやってるよりは外で稼いだ方が金になるだろ」
「俺はいいんだよ。人を相手にする商売だからさ。俺がいて、見てくれる人がいれば成立する。でも工藤は違う。この街に出版社は無い。外部から頻繁にアクセスすることも出来ないこの僻地で仕事をするには無理があるんじゃないかな、って話」
「…出て行け、ということか」
「違うよ!そうじゃない、そうじゃないんだ。…ただ、いつか突然出て行くと言われたら俺はどうしたらいいか分からなくなるだろうから、これから出て行く意思があるのかどうか聞いておけば上手いこと対処できるんじゃないかなぁって思って」


がさりと音を立てて野菜が動きを止める。黒羽の足が止まる。工藤が数歩先で立ち止まって黒羽を振り返る。黒羽の持つ紺色の傘が前屈みに倒れて、溜まっていた雪が地面に鈍い音を上げてぶつかる。辺りに響くのは冷たい風の音だけで、互いは沈黙を続ける。黒羽は俯く。工藤は真っ直ぐ、黒羽を見据えている。それからゆっくりと視線を外して、背景の、時間が止まったような街を見上げた。出たいと思ったことはなかった。そこまで深刻な不便もなかったし、何よりこの街の穏やかな空気が好きだった。黒羽は生まれてこの方この街から出たことが無いが、工藤は外部の人間だ。元々は探偵をしていて、ある事件に巻き込まれたことを切欠に転職して引っ越し、小説家として執筆活動に勤しみながらこの街で暮らしている。確かにこの街にコンビニが無いのは最初の頃は不便だった。大抵の店が夜になるとシャッターが下りている。レトロな外観に惹かれ移り住んだ身とはいえ、存外近代的な都会生活に依存していたことを発見して落胆したものである。とはいえ今では工藤も隣人の家に押しかけていることもあって、深夜の夜食がないという事態は回避できている。寧ろ夜型の生活が朝型の生活に切り替わり実に健康的な生活をしている。本当に黒羽のお節介に助けられているわけだ。黒羽だけに限らず、国の政治を映したかのような穏やかな人間性がこの街の特徴で、街を歩けば誰かしら声を掛けられる。それは一種のコミュニケーションであり、外部からやってきたお尋ね者の工藤を孤立させないための気遣いだ。それを誰ともなしにやってのけるのだから大概この街は平和だし、犯罪なんてものは殆どない。工藤がフィールドとしていた殺人事件などもう何年も起こっていないという。工藤のかつての本業が役に立つのは紙面の上だけであって、現実に反映されることはない。そこにまた彼が安堵しているのも事実である。とある事情があって探偵業を辞めざるを得ない身となってしまった工藤にとって、事件はトラウマであり、思い出すことすら躊躇う過去に繋がる。直面した時に自分がどうなるか分からない以上、触れたくないものから逃げるという選択肢しかなかった。故に、この箱庭のような世界を出たくない、ずっと微温湯に浸かるように揺蕩っていたいと思うのは自然なことのように思われた。


「…俺は、出て行く気はない。出版社の人間とは原稿を雑誌に掲載する代わりにこの街に住むことを条件として契約しているからな。あっちも分かってるだろ、多分」
「…でも、工藤にその気がなくても、お前基本的に原稿上げるの遅いから俺の部屋に逃げ込んできてたわけじゃん、最初は。時間ぎりぎりまで粘れる都会に担当さんに引き摺って行かれるかもよ」
「…痛いところを突くな、お前。大丈夫だよ、それは父親も一緒だったんだから。親子二代で一緒ってのは何となく想像つくだろ。そうでなかったら意外だね、で済む話だしな。大体ギリギリって言っても大抵次々号の原稿書いてるんだからアイツらも文句はねぇだろ」
「…まぁその発言に思うところは結構あるけど。それでもお前は出て行く気はないわけだ?」
「黒羽さぁ、俺に何回言わせれば気が済むんだよ。俺は、出て行く気はねぇの!ここで暮らして、この街の人間として死ぬんだよ」


がさりと野菜が揺れる。外界の象徴が風を切って音を立てる。工藤は黒羽に背を向けて帰路を急ぐ。頬に当たる風のせいで顔が赤くなってしまったと言い訳をしながら大股で交差点を渡ると、漸く黒羽が後ろから走って追いかけてくる。いつもは転ぶと危ないからと言って工藤を走らせない癖に、自分は走るのだなと笑った。そのまま転んでしまえば面白いのだが、黒羽は上手いこと転ばずに隣に並ぶ。今の、どういう意味、と性懲りもなく尋ねてくるのだから工藤が傘を向けて遮ってしまうのも無理はないだろう。ねぇ、と追い縋る男に、お前と離れがたいからだと素直に言ってしまえばどんな顔をするのだろうと思考して、それから工藤は直ぐに考えるのを止めた。黒羽が驚いて、それからにやにやして調子に乗るのは目に見えている。その締まりの無い表情を容易に想像できて、工藤は思い切り左右に頭を振った。それでも、その唇が笑みを象っていることを、彼は知らない。


ここは年中雪の降る街。かろうじて電気が通っているような古めかしい、周囲と時間を異とする閉ざされた世界。この箱庭を守りたいと願った。美しい世界を壊すまいと思った。指先が滑り言葉を紡いでいく。ここは永遠に雪の止まぬ街。嗚呼、愛しい永久の雪。お前が私を囲うならば悪魔と踊ることさえ苦ではないのだ。




 


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