>> 八仙花を抱いて





実を言えば、これで俺は二度目の行方不明扱いである。五年前、俺は江戸川コナンである事を止めた。灰原は複雑そうな顔をして見せたが、最後にはそう、と諦めたように笑った。暫くは様子を見ようと家に籠っていたが、有り余る時間を組織関連の情報収集に充てた俺は漸く組織の尻尾を掴んだ。俺はその日、幸福を一度手放すことを決めた。




「…貴方、黒羽君の所には連絡したの」
「…まだだよ。そもそも五年だぜ?裏切って出て行ったのは俺だ。快斗が見限っているとも限らない。俺はそんなリスキーな手段をとりたくない」
「…そう、貴方がそう言うなら私が口を挟むことではないわね。貴方の慎重さは尊敬に値するけれど、その臆病さは時として私を苛つかせるということを覚えておいてちょうだい」
「……」


灰原はそれだけ言うと薄暗い部屋を出て行った。五年も経つと彼女は綺麗になった。綺麗になった分、怒ると迫力が増したのも事実だ。溜息を吐く。臆病だと彼女は言う。確かに俺は臆病だった。可能性ばかりを考えて未来を憂い、いっそこの掌から零してしまった方が最善の選択ではないかと思考する。黒羽快斗のことにしてもそうだった。失うことを恐れて俺はその優しい手を離した。俺を伝って流れていく黒い世界を彼に染み込ませるわけにはいかないと、自分勝手に。ちょっと出かけてくると言って、本当は戻る気などありはしなかった。このまま自分を見限って離れて欲しかった。五年前の一方的な別れの日も、雨が降っていただろうか。傘を差して出て行く際に、揺れる肩が見えなくてよかったと安堵した記憶がある。それでもまた、自分勝手に逢いたいと、そう思ってしまう。彼女の言葉は決断を促すものだった。逢いに行けと言葉は違えどもそう言っていた。確かに、仮に黒羽快斗がまだ待っているとしたら、俺には、あの日を説明する義務がある。


地下から地上へと戻れば同じように薄暗い景色が広がる。派手な音を立てて雨が降り注いでいた。俺は静かに黒い傘を差す。黒羽快斗の元を訪れようと出てきたはいいが、彼の行方を自分は何も知らなかった。今日は棒に振るかもしれないが、宛もなく街を歩くのも久し振りだったためそれでもいいかと思い返す。水溜りを避けることなく歩けば黒いズボンの裾が濡れて更に黒くなった。その色を見て、自分はまだ少し、怯える。黒羽快斗の元を離れてすぐに、俺と灰原は地下へ潜った。工藤新一が生きていると組織に知れては問題だった。地下を拠点として、世界中の使えるコネクションを駆使し組織を壊滅させる手段を模索していた。米国連邦捜査当局を筆頭に世界各地の警察機構と連絡を取り、最終的には、頭痛の種であり実行のタイミングを逸していたらしい組織壊滅作戦への協力まで漕ぎ着けた。頭の固い重役連中の重い腰を上げるのに工藤新一の名はある程度役に立ったし、それ以上に役に立ったのが父親の名前だった。文字通り最大のコネクションを駆使し俺は組織の壊滅を目論んだわけである。数年をかけて綿密に計画を立て、遂に半年ほど前、計画は実行された。黒の組織は甚大な被害を被り、かねてからの念願通り壊滅した。幹部連中は残さず捕えたし、関係先も全て攻撃した。そして漸く、組織の残党狩りも終息を迎えようとしている。この案件は俺の手から離れて、今では俺も晴れて用無しになったというわけだ。過去を回想しながら大通りを逸れれば民家が立ち並ぶ。通りに面した庭には雨に濡れる草花が映る。そういえば彼は、花が好きだったように思う。仕事柄だろうか、彼は花の名をよく知っていて時折俺にも花束を寄越した。気障な奴だなと最初こそ嫌悪していたが、花束を抱いて嬉しげに笑う姿にこちらも笑ってしまっていた。この時期は紫陽花の季節だろうか。多くの民家に淡い色合いの低木が並ぶ。雨に打たれるその花からは、花言葉である移り気、無情といった表現は全く想像できなかった。その由来は七変化、八仙花と言われるように容易に色が変わるからだそうだが、こうしてじっと雨に濡れる様子は同じ花言葉の中でも辛抱強い愛情の方が相応しく思えた。


「…女々しい、か。今更」


また音を立てて水溜りを歩く。周囲には雨音しか響かない。要らない感傷に浸っても、この選択に後悔はないのだ。宛もなく歩いていた筈が、気付けば見慣れた道を歩いている。自宅へ向かう道だ。季節が五度も廻ると多少風景が違っている。新鮮な気持ちで家路につく。家が近付くと、電気が点いていることに気付く。自宅は、無人ではないようだった。ここで漸く黒羽快斗はまだ俺を待っていると、確信が芽生える。待っていて欲しいと口にしたわけではない。見限られても文句は言えない立場だ。しかし、こうして家に電気が灯っていて、誰かが待っているという状況は連綿の緊迫から解き放たれたような感覚を寄越した。それと同時に彼が自宅で待っているとは予想外で、心拍数が急激に上昇する感覚に、眩暈がした。


「…まさか、ここで待ってるとか、ない、だろ。心構えなんか、出来てねぇっつの」


自宅の前で足を止める。五年も寄り付かなかった自宅は、綺麗に手入れされている。電気が灯っている。愛想が尽きていても不思議ではないのに、この家には優しい明りが灯っている。俺は急いで携帯電話を懐から取り出した。指先が震える。見慣れた番号を選択して、思い切って通話ボタンを押す。数回機械的なコール音がした後、もしもし、と掠れた声がする。窓の向こうでゆらりと人影が揺れる。俺は息を呑んだ。もしもし、と返さなければならないのに言葉が出てこない。快斗だ。快斗が、この家にいるのだ。相手の声はもしもし、と苛立ったように続きを促している。涙が出そうだった。


「…もしもし、」
「…しん、いち、…」
「…快斗、久し振り。…覚えてるか?」
「…当たり前、じゃん。何、お前、どこいんの、」
「…玄関って言ったら、お前、信じる?」


互いの声が馬鹿みたいに震えてるのが分かる。げんかん、と快斗が呟くのが酷く弱弱しくて、俺の知っていた快活な快斗からは想像がつかなくて、自然と笑みをこぼす。そう、と答えると暫くしてから何かを落としたような大きな音が耳を割いた。快斗、と問うてみても返事がないことを考えるとどうやら携帯電話を落としたようだった。それから間もなく、ガチャンと玄関の扉が乱暴に開かれる。久し振りに見た快斗は幾らか身長が伸びて、男らしい顔つきをしていた。その分泣きそうに歪んだ顔が切ない。こちらを見た途端、本降りの雨が打ち付けるのにも構わず快斗は適当に靴を履いてこちらに駆け出してくる。少し手前で立ち止まった彼の顔は、やはり泣きそうだった。罪悪感が俺の中に芽生えるも、それよりも久方振りにリアリティを持つ彼の顔を見て、歓喜の感情の方が大きかった。五年前から言いたかった言葉など、一つしかない。


「…ただいま、快斗」


傘を傾けて笑って言えば、快斗は、泣いた。




紫陽花が視界の端で揺れている。五年前にはなかっただろう。淡い青色があまりにも優しくて、涙が出た。五年振りの涙だった。手放した幸福を、もう一度この手にして、いいのだろうか。紫陽花の上を滑る雨粒が、きらりと煌めいた。




 


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