>> 火葬の夜





江戸川コナンを殺した。それは必然的なことだった。その子供は死ななければならなかった。工藤新一と同時に存在することは許されなかった。そう納得したはずだった。それでも何故、涙が込み上げてくるのだろうか。




隣人が薬を開発したのはほんの数日前のことだった。俺は日常と化した非日常を謳歌していた。俺にも焦りが無かったわけではない。工藤新一に戻りたいと何度思ったか知れない。手足の短さを何度恨んだか知れない。出来ることならば工藤新一として生活したいと願っていた。けれど江戸川コナンとしての生活が板に付き、違和感も多少薄らいできていたのも事実だった。子供らの相手をするのも楽しく、毛利の家で居候をするというのも長らく独りで暮らしてきた自分としては新鮮だった。その矢先、灰原は、解毒薬の開発に成功したのだと言う。


「…副作用が出る可能性は否定しきれないわ。…最悪の場合、死に至る可能性も…」
「…ああ、分かってる。…奇跡が二度あるとは限らない」
「…本当に戻るの。…江戸川コナンではいられないの?」
「……悪ぃな、灰原」
「…そう。…貴方が謝ることではないわ。元凶は私なのだから」


彼女の華奢な背が揺れていたのを知っていた。涙を堪えていたことを知っていた。彼女は恐れていた。確かに存在していた何かを消してしまうことを。それでも俺はこの子供を葬ることを決めたのだ。彼女には申し訳ないと思う。けれど例え死のうとも俺が望んだ道なのだ。




「…戻るんだってな。よかったな、賭けは結局、俺の負けって訳だ」
「…快斗…」


そう快斗は笑った。誰もがセンチメンタルに浸る中で彼は一人笑った。賭けに負けてしまったと、アイスの当たり棒が外れだったかの如く軽い調子で。昔、どちらが先に片足を突っ込んだ非日常から抜け出すか賭けたことがあった。別段何か具体的な物を賭けた訳ではなく、売り言葉に買い言葉。賭けをしたことすら俺は忘れていた。それを持ち出して、快斗は祝福の言葉を寄越すのだ。


「…明るく見送ってくれよ。江戸川コナンの死にお前のセンチメンタルな空気はいらない。俺が死んだ訳じゃねぇんだ」
「わーってるよ、“江戸川コナン”の最期の頼みだ。二人ん時は盛大にやってやる。流石に葬式ん時にゃ難しいが」
「…悪いな」
「…泣きたいなら泣け。場所なら貸してやる」


どうしてそんなことを言うんだろうか。快斗はその対の瞳を俺に向けて、泣け、と言う。泣くなど俺の矜恃が許さない。それを分かっているはずなのに、彼は俺に泣けと言うのだ。




「…これで死んだんだ、江戸川コナンは。工藤新一と引き換えに」
「…新一、責めるな。自分を責めるな。誰にも責任は無いんだよ」


工藤新一は人々の記憶の中の江戸川コナンを犠牲にして解毒薬を飲み、復活を遂げた。快斗は俺を見て、新一と呼ぶ。最早江戸川コナンという名の少年はいない。いずれ風化してゆくのだろう。元より存在の無い者への思いに、終焉の墓場など無い。崩れ、流れ、散り、そして消える。灰の様に土に同化し原初に回帰するのだ。


「…歩美は、相当泣いてたな。蘭も園子も、おっちゃんも。俺は選択を誤ったのか?愛されていたのはあの子供?」


葬式の後の小さな呟きは冷たい冬の空気に溶けて消えた。喪服の黒が悲哀を際立たせている。たった数年であの子供は世界を変えてしまった。あれは俺であり、俺はあいつにはなれない。火葬で灰になった人工骨と共に世界を昇華したはずだった。江戸川コナンの、工藤新一とは無縁の世界。そいつは未だ残っていて、今にも工藤新一を食らってやろうとしている。黒い影を湛えて飲み込もうとしている。逃げるのに必死だった。立ち止まったら最後、食われてしまう。恐怖だった。それがずっと、俺を突き動かしてきたのだ。そいつは江戸川コナンとしての未練だった。人生をもう一度やり直したいとは思わない。けれど小さな世界は大人に近付き汚れた物を見慣れた自分には眩かった。羨望であったかもしれない。微温湯の様に心地のよい世界を壊したくなかった。閃いては消えてゆく、江戸川コナンの世界の欠片。ゆっくりと俺を狂わせてゆく。




「…いっそ俺が死ぬべきだったか?俺の執着は間違いだった?子供のままでも探偵でいられたのに、多くを望み過ぎた?」
「新一!頼むから正気に戻れ!手首なんざ切ったって何にもならねぇだろ!」


鋭い銀のナイフを引けばプツリと容易に肌は切れる。左の手首には既に無数の傷があった。浅いものから深いものまで、傷口の塞がったものから真新しい傷まで。痛みは最早感じない。火葬をした日から、感情も感覚も欠落していた。ただあの日の選択への後悔ばかりだった。快斗がいなければ俺は今頃死んでいたかもしれない。しかし現実俺はこうして手首を切り、かろうじて息をしているだけであった。果たしてそれを生と呼べるのか、俺には判断がつかない。再び訪れた日常に牙を剥く非日常の欠片。時折会話に混じる死んだ子供の名残。それらが皆俺を蝕んでゆく。責められている気がしてならなかった。お前は間違っているのだと指差されているようだった。自意識過剰であることくらいは自分も分かっている。


「…新一、愛してる。愛してるんだ。俺だけじゃだめなのか?俺の愛だけじゃお前の未練は飽き足りないか?」
「…それでもお前は俺の影に何かを探しているんだろう?俺がお前とキッドを分けて考えられないように。お前は江戸川コナンのオプションとしての…」
「違う!新一、俺が愛しているのはお前であり、江戸川コナンだ。元はといえば同一の人間だろう。互いの本質こそがお前の愛する唯一つの真実だ」


快斗は必死の形相で、泣きそうな瞳で、愛しているのだと言う。赤く血の滲む手首をぼんやりと眺める。伝う血の赤い軌跡がフローリングを汚していく。現実はもうこの掌から逃げてしまった。俺の中に醜い引っ掻き傷を残して、今ではもうその背すら見ることは叶わない。真実から背けた瞳が、白く濁っていく。いつしか追うことを諦めたその小さな背は、江戸川コナンの華奢な背に似ていた。


「…快斗、」
「…愛してる。愛してるんだ、新一も、コナンも。お前を形成する全てが、どうしようもないくらい愛しいんだ」
「…快斗、かいと。平穏な日常を夢見ることは、恒常の平和を願うことは、罪なのだろうね、こんな俺には、…おれ、には」
「…しんいち、」


透明な雫が一粒床に落ちた。涙だった。もう、どちらが泣いているのかは分からない。俺なのか、快斗なのか、はたまた江戸川コナンなのか。それさえ、滲む景色では判別不可能だ。快斗は俺を抱きしめる。痛いほどに力を込めて抱きしめる。痛いと、久し振りに思った。それが身体の痛みなのか、心の痛みなのかは分からない。しかし冷静な頭は漸く朧気な感覚を認識しはじめていた。左の手首が麻痺している。快斗の触れる部分から熱が流れ込む。頬を涙が伝う。座り込むフローリングの床が冷たい。窓から刺し込む月光が、白く、眩しい。


「…快斗、…いたい」
「…うん、…もう少し」
「……ごめんな」
「…今更だよ」
「…うん」
「…心配してた。けど、もう平気だな」
「…うん」


快斗は笑う。涙の跡の残る顔で、酷く安心したように笑う。手首を這う血の細い筋は既に凝固していた。


「…明日にでも、燃やそうと思うんだ」
「…何を?」
「…服とか、蝶ネクタイとか、江戸川コナンの関係する物全てを」
「…いいの」
「…いいんだ。過去の俺に違いはないんだから、俺の記憶の中にあれば、それで」
「…そっか」


快斗はそれきり沈黙する。それが、俺が既に決めたことであるのを快斗も分かっていた。明日、江戸川コナンは現実世界から完全に消え去る。中途半端に残っていた遺品は、この思いと共に荼毘に付すのだ。明朝にはこの庭に徒しの煙が立つだろう。その時には、俺のこの瞳にも新しい現実が映るだろうか。


無常の煙は天へと昇る。俺はお前、お前は俺。何が我らを分かとうとも、我らはとうに離れられぬのだ。その小さき身体が灰塵となろうとも俺と共にあれ。さらばその喪われし身を、俺は永久に抱いていよう。




 


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