上履きを履くために靴に触れた瞬間にどろりとした感触を感じて思わず手を引くと、指先は泥で汚れていた。自分の靴箱を覗いてみれば、ゴミや泥が詰められている。どこかの漫画で読んだような状況にどくりと心臓が嫌な音を立てる。どれだけ丁寧に落としても上履きについた泥が綺麗になるとは思えなかったけれど、水道で洗い流した。その下から出てきた文字はビッチ、変態、死ね、ブスなどという暴言で、どうせ使えないなら洗わなければよかったと上履きをゴミ箱に投げ入れた。来客用のスリッパを借りて教室に入る。思っていた通り、靴も机もめちゃくちゃで、机上の華奢な花瓶の中には一本の花が入っていた。
自分がいじめられているという現実が受け止めきれなくて廊下を走れば背後から自分を嘲笑うような声が聞こえた。なんで?私、何もしてないのに。

今までクラス内のいじめに遭遇したことがないわけではなかった。だけどその当事者は決まって自分ではなくて、いつもそれとなく助けるのが私の役割だった。いじめられているのを助けてもいじめの標的が自分に移ったことはなかったし、これからもないと思っていた。いじめられるようなことをした覚えもなかった。
いきなり起こった現実が受け止めきれなくて涙も出なかった。ただ教室に戻りたくないとは思った。

「ナマエ?どうしたの?」
「研磨・・・」

研磨は朝練で教室の状況を見ていないからかいつも通り話しかけてきた。しゃがみ込む私の腕を掴んでもうすぐ授業だよ、と声をかける。

「研磨・・・どうしよう。私、一人になっちゃうかもしれない」

口に出してみればその現実が自分の中にどんどん染み込んできたように感じて、苦しくなってくる。

「大丈夫だよ、ナマエ」

研磨は何も聞かずに背中を摩ってくれた。研磨の大丈夫は少し安心できる。研磨は嘘は吐かないから。

「何があっても俺が一緒にいるよ」

薄く筋肉のついた胸に押し付けられる。ふわりと優しく研磨の香りがした。

「大丈夫だからゆっくり呼吸して」

言われて初めて自分の呼吸が荒くなっていることに気づいた。ゆっくり研磨の香りを吸い込んで、息を吐き出す。

「ありがとう、研磨」

落ち着く香りに包まれてぎゅうぎゅうに抱きしめ返せば研磨は少し困ったような顔をして笑った。




研磨と離れてから少し遅れて教室に戻った。机も椅子も元通りとまではいかないけれど綺麗になっていて、研磨がしてくれたのかなと思った。少し小さく千切った消しゴムを当てられたりはしたけれど、思っていたよりは何事もなく一日を終えた。

あれから何回も嫌がらせを受けた。その度に研磨が助けてくれた。親に捨てられてからずっと一人で育ててくれたおばあちゃんに心配をかけたくなくて、相談ができなかった。クロは学年が離れているという理由があるにしても、私がいじめられてから私の教室に来ることはなくなっていた。私がビッチで、尻軽で、誰とでも寝る女だという噂を聞いて信じているのかもしれない。私の味方は研磨しかいなかった。

「ナマエちゃん、ちょっといい?」

帰り際にクラスメイトから呼び止められて嫌な予感はした。断るわけにもいかずにのこのこと大人しくついて行ってしまった。誰も味方をしてくれないとはいえ人目のない場所に行くべきではなかったのに。

水をかけられて体育倉庫に閉じ込められた。季節は冬に近づいてきていて肌寒い。本当に殺す気なのではないかというほどにナマエの体は冷え切っていた。
体育の倉庫と部活倉庫は離れていた。いくら研磨でも別々に帰宅している私を見つけてくれるとは思えなかった。加えて今日は金曜日で、見つけてもらえなければ三回は倉庫の中で夜を越すことになりそうだった。濡れている服を脱がなければいけないことは分かっていた。だけど下着になった瞬間を撮られてまた痴女扱いされるのではないかと思えば脱ぐ気になれなかった。角の方で小さくなって随分と上にある窓を見上げるけれどそこからは月の光すらさしていなくて、倉庫の中は真っ暗だった。

「ナマエ!!!!」

いきなり叫ばれた自分の名前にびくりと肩を揺らした。

「研磨!研磨!」

硬く閉ざされた扉に近づいて思い切りそれを叩いた。幸いその一回で研磨は気付いてくれたようで、ガタガタと扉が開かないように立てかけられているものをどかしてくれた。

「ナマエ」

息を切らして扉を開けた研磨の背後には少しいつもより眩しいくらいの月が輝いていた。




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