ただ、君のそばにいたいと思ったんだ。
「……ごめんね。無理させちゃって」
「それはいいの。約束は約束よ。――でも、」
綺麗に巻かれた、肩に流れるように落ちる黒髪を払って、女は眉間に皺を寄せた。ふわりと裾の広がった白いワンピースがよく似合っている。
カツカツと大理石の床を響かせて、目の前に涼しげな顔で立っている男を見上げた。
「――私は、"ちゃんと"疾風隊に連絡するようにって言ったはずよ、葵」
「……何を怒ってるの、姉さん」
首を優雅に傾げて、葵は微笑んだ。そのとぼける姿に静香の顔がますます険しくなった。
「そりゃあ、怒るわよ。だって、」
「いいじゃない、別に。だって知らせたら、あの男がまた邪魔しにくるでしょ?」
葵のいうあの男とは、十中八九、桔梗のことだろう。葵は、端から疾風隊に知らせるつもりなどなかったのだ。
――やられた。静香は内心、舌打ちをした。
葵がふふふっと愉しげに笑った。
「まあ、姉さんと連絡が取れないのを放っておくような男じゃないみたいだし、その内、ここに辿り着くだろうから心配はいらないよ。姉さん」
「……最初から、心配なんてしてないわ」
「そう?」
葵は静かに手を差し出した。
「――じゃ、行こうか。時間もないし」
「……」
静香は無言で葵の手を取った。その手を引きながら、葵はにこにこと胡散臭い笑みを浮かべている。
「仕事も片付いたし、これでようやくゆっくり出来るよ。……これから、あの男に見つかるまで、姉さんは僕と一緒だからね」
「……」
――桔梗は、きっと心配しているだろう。頭の隅で、静香はぼうっと考えた。
事は至極、簡単なことだった。静香は、葵の提示してきた条件を呑んだ。
――時間の許す限り、葵と一緒に過ごすこと。
それが、白菊を救うための葵の条件だった。
「――んで、桔梗さんよ」
「……なんですか?」
「寺門家とあの姐さんってどういう関係なんだ?」
「……」
桔梗は足を止めずに、ちらりと桃を見やった。いまいち納得がいかねえんだよと桃は顎に手をやり、首を捻っている。
「寺門の屋敷を探してるってことは、全く関係ないってわけじゃねえんだろ?」
「……知る必要はないでしょう」
「――おい、」
桃はずい、と桔梗に顔を近づけて、凄んだ。
「お前ばっかりが心配してんじゃねえんだぞ」
「誰にだって知られたくないことはあります。放っておいてください」
「……そうやって、」
桃の目が鋭くなった。そして、眉間に皺を寄せた。
「お前が向き合わせようとしねえから、あいつがいつまでたっても振り切れねえんじゃねえのか?」
「!」
「……今は、てめえと喧嘩してる暇なんてねえ。先、急ぐぞ」
こっちだ、と先導する桃の後ろを歩きながら、桔梗は唇をぐっと噛み締めた。
――わかっては、いる。
桔梗も、静香も、過去から逃げたいばかりに、いままで向き合おうとはしてこなかった。辛くて、苦しくて、悲しい思いに蓋をして、目を背けた。もう少しでいい、放っておいてほしかった。そっとしておいてほしかった。
「……着いたぜ。ここがて、」
「! ――桃!」
何かに気付いた桔梗がそっと物陰に桃を引っ張っていき、自分も身を隠した。
「おい、何す、」
「しっ! 静かに!」
桔梗は桃を制して直ぐに、がたんと大きな音が通りの向こうから近づいてくる。
「あん? なんだ?」
「それに、蹄の音…。馬車ですね」
「ばっ、」
息を呑んで、桃が目を丸くした。ここら一帯では馬車は珍しい。
「……俺、馬車なんか見たことねえよ…」
「僕も都で何度かしか。……怪しいですね」
そう言うやいなや、桔梗は軽く地を蹴ると、高く跳躍した。桃が止めようと手を伸ばしたが、桔梗の体が屋敷の敷地内に消えた後だった。
「お、」と声を上げようとした桃だったが、口を塞ぎ声を押し殺した。
馬車の音が桃の隠れている草陰に近づいてきたのだ。
(……ったく。結局、置いてきぼりか)
大丈夫かなと空を見上げ、桃は草陰に屈みこんだ。そして、大きくため息をついたのだった。
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