▼ vengeance:target green02
「わっ、ちょっとうた、いままでどこにいたの? なんで唾液まみれ……」
「ワォンッ」
「あ、もしかして弦くんが?」
「わんっ」
そうだよー、優子さん。
白狼長男(おにいちゃん)こと私たち白狼兄弟のたぶん一番うえの兄です。
みんな同時期に生まれたはずなんだけどね、順番によって体格差がちょっとあるんだ。
一番うえの兄・弦は兄弟のなかじゃ一番大きいし、一番したの私はやっぱり一番小さいし。
私が昼間いる縄張りに頻繁に顔をだしてくれて、そのたびに全身をずぶぬれにされるくらい舐められる。くまなく、すみずみまで。
だから舐め終わるころには自慢の毛並みもぐっしょりだ。べとべとの唾液まみれにされ、最終的には白狼父(おとうさん)によって池で洗われるんだけど。
べとべとだろう私を、まるで壊れ物のように丁寧に扱う優子さん。真っ白なハンカチで綺麗に拭いてくれた。
レース付の可愛いハンカチだったのに、唾液で汚くなってしまった。
前足のうら、肉球をぷにぷにされながら拭かれる。実は優子さん楽しんでるでしょ、と思わなくもない。
サァと風が吹いて弦兄さんが鳴いた。
優子さんの後ろから長い影が伸びた。
「……ああ、見つけられたのか」
光りを背負ってたつ男は長身で、逆光で顔が良く見えない。
間近で聞く声はやっぱり腰にくる低音で少し硬めの、神経質そうな、というのは私の想像だけど。
ちらりと見えた深緑色の目が少しツリ気味に上がっている。瞬きで開かれた目は、柔らかに下げられていた。
「その仔が、君の言う白狼のうた、か?」
「はいっ! この仔がうたです。宇緑(うろく)先輩、手伝ってくださりありがとうございました」
「いや、これくらい構わない。もとは俺が迷惑をかけたからなのだし、気にしなくていい」
すっと片膝を地面につけて、優子さんの目線に合わせるように話す。
影に入って顔がはっきりと見えるようになって、なるほど確かにイケメンだと思った。
光りの加減では少し緑がかかったように見える黒髪に、目の色は深い緑。角度によっては黒目にも見える、涼しげな目元だ。
制服はネクタイからボタン、シャツまできちんと一つの校則違反もなく着ている。さすが生徒の模範生・生徒会の一員ですね、と言いたくなったけど、思い返すとこの人以外の制服姿はだらしなかった。
じゃらじゃらとシルバーアクセを身に着けているチャラい会計に、校則違反のはずであるホワイトベストやカーディガンを着用している副会長。
会長はシャツの第1ボタンがあけてある以外は特になかった気がする。まああくまでも式典では、だし。普段はもっとひどいのかもしれない。
皺ひとつない制服を身に着けた男、宇緑演之助をじっと見つめる。
どの角度からみても美形は美形なんだということを痛烈に思い知った。
「グルルゥ……」
弦兄さんが低く唸る。
途端森林の木々は激しく揺れて葉が舞い散った。
赤く染まったもみじは散り際の桜のようにひらりひらりと落ちてくる。空を見上げると、もみじで一面の赤だった。
「ガウッ!」
鋭い一鳴き。
場を切り裂くようなそれは、たぶん白狼父(おとうさん)だ。
真白の巨体が木々の隙間から強い風を纏ってやってきた。
いつみても大きい私たちの父はその口に弦兄さんを咥えた。どこか苛立たしげに一度鳴いて、ぽいっと地面へと投げた。
弦兄さんが絞り出すような鳴き声を立てると、宇緑書記も優子さんも弦兄さんのほうに集中しだした。だけど私の耳は獣になったことで良くなった聴覚が非常に優秀で、小さな足音も鮮明に届いた。
地面に降り積もったもみじを踏み歩き、くしゃりくしゃりと音をならす。
「探したぞ、お前ら」
呆れを含んだ、心底疲れた声は間違いなく、あの愚痴り屋の学園長だ。
自分の髪をかきあげながら、少しネクタイを緩ませた格好でこちらに近づいてくる。
黒いスーツが妙に似合っていて、それが腹立たしい。なに格好つけてるんだ、と言いたくなるくらいの格好よさだ。
学園長の出現にいち早く反応したのは宇緑書記で、その後に続くように優子さんがゆっくりと振り返った。
2人とも驚きに目を見開いている。
学園長、そう小さく呟いたのは果たしてどちらのほうだろうか。学園長は小さくため息を吐いた。
「ったく、こんなところで何やってんだお前らは」
「す、すみませんっ! かくれんぼしてたらうたを見つけられなくて、宇緑先輩に助けていただいてたんです」
「もとは俺の責任です。手伝うのは当然のこと」
学園長の問いには2人とも同時にこたえた。
被ったことに対してはまたもや揃って顔を見合わせて、少しだけ気が抜けたように笑った。
そんな2人に学園長は呆れの表情を隠しきれていない、というか隠していない。額に手を当てて息を吐いていた。
「日向はもう二度とうたとかくれんぼをするな。この先は崖があって危険だし、なにより見つけられないのが怖いしな」
「は、はい……」
「っはー。やんなら別のとこでやれよ。で、宇緑」
「……はい、学園長」
「お前は至急会議室へと向かえ。事情がどうであれ、会議に遅刻したことに間違いはない。連絡のひとつくらい寄越せ」
宇緑書記は立ち上がって学園長に一礼した。そして「申し訳ありませんでした」と、謝罪の言葉を口にする。
自分に非があることをわかっているからこその、冷静で真面目な言葉。深く頭を下げ、その声にはちゃんと気持ちがこもっている。
うん、印象は好い。さすが第3学年の首席で、生徒会書記ってとこかな。幹部に選ばれるのもわかる気がする。
学園長はひとつ頷いて、宇緑書記に会議に行くように促した。
そんな学園長の手には紙束、たぶん会議の資料だろうものが握られていた。それを宇緑書記に渡す。彼は「ありがとうございます」と返事をして、優子さんに向かって礼をした。
優子さんもそれが何を意味しているかが解ったのか、もう一度宇緑書記にお礼を言った。少しだけ頬を緩ませた宇緑書記は、そのまま学園長の横を通り過ぎようとした。
だけど途中で止まって、何かを耳打ちしているようだ。
「……学園長、ほかのやつら(・・・・・・)は来てますか?」
「いや、来てねぇな。また例の奴(・・・)だよ。まあ、あいつだけは来てるけどな」
「申し訳ありません。よくよく言い聞かせますので……」
「おう。頼むな」
優子さんには聞こえてなかったみたいだけど、今の私にはばっちりと聞こえている。
グルッ、と一鳴きした白狼父(おとうさん)によって話しは遮られ、宇緑書記はもう一礼して今度こそ去っていった。
ほかのやつら、とか、例の奴、とか、すごい気になる言葉が出てきたけど、なんとなく想像できるから本当に嫌だ。
宇緑書記の背中には哀愁が漂っていて、どこか苦労を背負っている。でも崩されることのない姿勢には自信とやる気に満ちていた。
いつまでも宇緑書記の背中を眺めていたら、優子さんが驚いたように声を上げた。続いて生暖かいものに舐め上げられる感触がする。
振り返ろうと首を動かすけど、そうする前に首根っこを摘ままれた。そしてのそのまま、ぽいっと宙へと投げられる。
わぁ、綺麗な景色 ――― なんて思う暇もないわけで。ジェットコースターの下りの時に似た不思議な浮遊感を感じて落下した。
地面がどんどん迫ってきて ―――
「わフんっ!?」
ぽふん。なんとも気の抜けた効果音。
地面に強く叩き付けられるのを想像していたのに、身体にはなんと痛みも感じない。
むしろ上質の毛皮みたいな、ふっかふかのベッドみたいな、とにかくお高そうな柔らかい感触。
仰向けに落ちたからか、なかなかひっくり返れなくてもがいた。今日の1日もがき続けてるな、という考えは頭の隅に捨て置いた。
滑(なめ)らかな感触にそのふかふかのベッドから滑り落ちて、地面へと着地した。その衝動でやっともとの体勢に戻れた。
べろり、もとの体勢に戻れて一安心していたのに、粘着的な何かに舐められた。ざらざらした感触に、舐められたのかー、と思う。
ん? なんで舐められたの、私。
「がぅ」
「……わぅ」
べとべとになった右半分のまま後ろを振り返った。一面真っ白。柔らかに動いたその色は、鮮やかな赤い舌と若葉色の双眼を加えて迫ってきた。
――― 弦兄さん
もう一度顔を舐められて、白狼父(おとうさん)にやられたように首根っこをつままれた。そしてそのまま弦兄さんの懐にいれられた。
もふもふです。
「っうた! 大丈夫!? 怪我ないっ?」
「わんっ!」
白狼父(おとうさん)によって遠くまで飛ばされた弦兄さんの方に飛ばされたわけだから、私も随分遠くに投げられたらしい。
顔を真っ青にした優子さんが、慌てた様子で駆け寄ってきた。目の前で小さい白狼(いぬ)が飛ばされたら、そりゃあ心配になるよね。
弦兄さんの懐に入れられた私に手を伸ばそうとする優子さん。でも弦兄さんの警戒するような鳴き声にビクリと震え、その手を引っ込ませてしまった。
優子さんはすっかりおびえてしまって、私のほうへと伸ばす手を何度も躊躇うように出したり引っ込ませたりしている。
そんな優子さんの後ろから、少しだけ焦ったような学園長とゆったりとした足取りの白狼父(おとうさん)がやってきた。
学園長も私を心配しているのか、怪我はないのかと聞いてきた。返事をしたつもりだったけど、弦兄さんの毛並みの圧迫感でくぐもってしまった。
もふもふの毛並みを私に押し付けながら寝そべる弦兄さんに向かって、白狼父(おとうさん)が強く吠えた。大きい音に慣れてないのか、優子さんが肩を震わせた。
迫力のある鳴き声だったもんねぇ。でも弦兄さんは動じることはなく、そのままの状態で気だるげに鳴き返した。
少しだけ興奮気味の白狼父(おとうさん)はもう一度吠えようとしたけど、学園長が手で指示を出すと大人しく座った。
「ほんっと、いきなり投げることはねぇだろ。弦、だっけか。そいつが居なきゃ今頃大けがだぞ馬鹿響生(ひびき)」
「グルルゥ……ッ」
「計算済みだってもなぁ、うたは吃驚したに決まってる」
「グォンッ」
「一回落ち着けよ。うたに、娘に嫌われてぇのか」
白狼父(おとうさん)の毛並みを優しく撫でながら、学園長はそう語りかけた。
大きな身体を縮ませて、長く毛深い尻尾をたらした。どこか元気がなさそうだとでも言いたげで、心なしか耳も垂れ下がっているようにも見える。
まあ、弦兄さんの懐から覗いている状態だから、本当にそうなのかはわからないけれど。
『嫌われたいのか』と聞かれた瞬間、苛立たし気に地面を強くたたいて返事を返した。低く唸りながら、忠心深くその場に座った。
「融通が利かねぇというかなんというか、少しは大人しくしてろよ。……弦、うたを出せ」
「ガゥッ」
「出せ。うたは夜は日向の寮室で過ごすことが決まってんだ」
「グルルァッ」
「……なんだってお前らは、こう融通が利かない」
何度目かのため息を吐いた学園長は、もう癖になりつつあるだろう前髪をかきあげる仕草をした。
私はいまだに弦兄さんの懐のなかにいて、ぐりぐりと毛並みを押し付けられる。柔らかいけど、圧迫感があって息苦しい。
今日は厄日なのだろうか、穴に嵌って抜け出せなくなったり、解放されたかと思ったら次は投げ飛ばされて、その挙句今度は毛並み攻撃。
窒息死になったらどう責任とってくれるんだ、と言いたくなる。まあ、生前の私はもう過去のひと、亡くなってるんだけどね。
「融通利かないとこは親子だよなぁ。形とか、毛並みの白さも微妙に違うけど似てるよな。で、なに。今日はうたを返さないってか」
「ガウッ!」
「グヮンッ!」
片手を腰にあて、可笑しそうに問いかける学園長。
上から弦兄さん、白狼父(おとうさん)の順で返事をした。
雄だからなのか、それとも大きいからか、二人の鳴き声は迫力があるし、厳格さがあった。
大きく低い鳴き声は人を畏怖させ、怖がらせる。現に優子さんはビビりっぱなしだ。
そんな優子さんを視界に映して、学園長は本日何度目になるかわからないため息を吐いた。
「……と、いうことだ。今日は諦めてくれ、日向」
「は、はい」
小さな弱弱しい声で返事をした優子さんは、顔が真っ青だった。
そのあと私は久し振りに縄張りで寝た。
その前にいろいろとあったけど、まあ割愛したい。スルーしたい。
生まれ変わって捨てたはずの羞恥心がぶり返してくるような、そんな気恥ずかしいことがあったことだけは、確かだった。
すみのすみまで、くまなく舐めるの、本当にやめてほしい。
私が一緒にいない夜は珍しくて、優子さんは久し振りに一人っきり時間を過ごした。
まさかそんなときに事件が起こるとか思うはずもなく、次の日に目覚めたら泣きはらした優子さんに会った。
「う、うた、どうしよう……ッ」
ちょ、え、一体何があったっていうんですか。
それはあくる日の毛繕い中、どんよりとした曇り空の時だった。
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