01 | |
「――忘れようと思うんだ。」 それは酷く静かで、不可解に凪いだ声だった。 長く続いていた、押し殺したような嗚咽の残滓が僅かに残る、掠れた声だった。 「振り返って手を伸ばすことが無いように、ワシが前を向いて行く為に。」 身勝手を振りかざして笑う時よりかは幾分痛切に満ちた声音は、しかしそれでも独善を高く掲げている。動かない身体に重く圧し掛かる苛立ちは、行き場も無く留まったままだ。 ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな。 どうしてそんなことが言える。人から全て奪っておいて――素知らぬ顔で正しさを語り、人を打ちのめしておいて。 「お前を綺麗さっぱり忘れて、全部此処に置いて行って……それで、」 声音から段々と涙の色が消えていく。軽やかさえ感じられる程に、歌うように男は言う。 「ワシは幸福に生きて行くんだ。」 ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな! どうして、どうしてそんなことが。忘れるのか。全て忘れて、そうして笑って、生きて行くのか。――ふざけるなと叫び出したかった。動かない身体をそれでも叱咤し、飛び起きて、掴み掛りたかった。意識は重苦しい黒に塗り潰されていく。紡がれ続ける小さな声は、やはり涙の色を棄てている。 「――……ワシはお前を忘れて、幸福になるんだよ、三成。」 最後に聞こえたのは、奇妙に空虚な笑声だった。 そうやって忘れられた日のことばかりを、何故だか良く、夢に見る。 「三成!」 甲高い声に目を開けると、丸々とした団栗眼が私を覗きこんでいた。天井の蛍光灯の光が栗色の短い髪を透かしている。目の合ったことに、子供はいたく嬉しそうに目を細めた。 「おはよう! 朝だぞ!」 「……ああ、おはよう。」 上半身を起こして、僅かに霞んでいる目を手のひらで覆いながら首を振った。ベッドに膝を乗せたまま、子供は大人しく私の次の言葉を待っている。目覚めの悪い私をこうして待つだけの時間でさえ、その顔から楽しげな色が消えることはない。昔からそうなのだ。随分変わった子供だった。 もう一度その山吹と目を合わせて、「下に行くか。」と呟けば、子供は――家康は、白い歯を見せて顔全体で笑ってみせるのだった。 その髪を笑みさえしながら撫で、私は今日も朝を迎える。 ← → |