【ガラス玉の世界】
「あ、ああ」
声にならない声が漏れる。ああ、やっと、自分がどうしてここまで動揺していたのか理解できた。
彼を占有したと思っていたのは、ただの思い上がりで。実際には、彼はずっとパンドラと共にあり、僕なんか邪魔な、ただの障害程度でしかなかった。その事実は、酷く僕の心を壊したようだ。僕は、彼の何でもない、ただの邪魔者、排除すべき物。通行するのに邪魔な石ころ程度の存在認識。自分には、やっぱりなんの価値も無い。役立たず。お前は役立たずだ。要らないもの。必要ないもの。彼の手のひらで転がされ、彼の敵にすら、なれなかった。
ユーリと、違って。
思考はそこで完全に停止してしまった。僕はついに壊れてしまったのだろう。ヒュプノでも何でもなく、ただ、彼に自分の心の脆いところを突かれただけで。
「あ、」
「真木、なにか服はないか? これは流石に寒い」
「少々お待ちください、紅葉に持ってこさせましょう」
「頼んだよ」
僕が動かなくなると、彼らは途端に意識を僕から外した。流石に拘束は解かれないが、完全に蚊帳の外。興味を外された対象。
「あ、あ、」
「はい少佐、学ラン持ってきたわよ」
それでも唇は動くらしい。意思も何もないのに、それは勝手に言葉を紡いだ。
「やあ、ありがとう」
「……! もう! 少佐の馬鹿! 一人で無茶して……!」
「ごめん、悪かったよ」
「……なんで」
「ん?」
呆然としたまま音を吐く。
「何故、僕の手を、とった」
あの、避雷針の上で。
「……役に立つかと思ってね。実際には、まあ、使えなかったけど」
「なんで」
「さあ、なんでだろうね」
「なんで」
「……少佐」
「なんで」
「真木、少し待て」
今度は、僕が人形だ。
『そと』としか紡げなかった彼の代わりに、僕は、ずっと、疑問を投げかける。
「坊や、僕の目を見るんだ」
「なんで」
「さあ、いいから早く」
「あ、」
彼の光のない黒い瞳が目に映った。何故だろう。酷く落ち着く。
「ちょ、少佐、まさか!」
「最初からこうするつもりだったんだ、静かに」
「……はあ」
「もう、これからその子、どうする気なのよ……」
周りのうるさい声は、もう聞こえなかった。静かに静かに、彼の声が耳に入ってくるだけ。
「こういう心が崩れた時が、一番催眠が効きやすいんだ」
「う、あ」
脳みそをとろりと溶かすようなぬるく冷えた声。とろとろと耳から脳が、記憶が、溶け落ちていく。ふわふわ、ふわふわ、世界が万華鏡の様に揺らめいた。めのまえのひとのめも、ゆらゆら、ゆらゆら。
「初めまして」
「あ、う?」
あれ、このひとは、だれだったっけ。
「僕の名前は兵部京介」
「ひょうぶ、きょうすけ」
このひとは、ひょうぶきょうすけ。
「皆は少佐と呼ぶ」
「しょうさ」
このひとは、しょうさ。
「君の名前は?」
ぼくの、なまえ。
「わから、ない」
「なら、僕が名付けてあげよう。君の名前は――――
ぼくには、よくわからなくなっちゃったけど、なんとなく、あたらしいぼくがはじまったのだと、わかった。
ゆうやけがきらきら、ひかってて、しょうさのめも、きらきら、ないているみたいに、ひかってた。
しょうさがないているのは、きっと、ふるいぼくが、しんでしまったからなのだろうな、とおもった。
しょうさのめは、きらきら、きらきら、がらすだまよりも、きれいだった。
ぼくのあたらしいせかいも、きっと、きらきら、きらきら、きらきらきら。
「その手を離したとは、誰も言わないよ」
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