センチメンタルグライダー
私は五条悟という人間が嫌いだ。あの飄々とした感じ、何もかもが胡散臭い。絶対裏で何かやらかしている人間だと思っている。五条家は奴の好き放題らしいから、全部許されるんだ。ああ、力のある血筋って羨ましい。
正午を少し過ぎた時間。蒸し暑い午後を私はこじんまりとした喫茶店で過ごしていた。空調が程よく効いていて過ごしやすい。たまに夏だからって冷房増し増しの店があるが、あれはいただけない。外との温度差がありすぎて具合が悪くなる。そんな訳で、快適な温度で誰にも邪魔されず一人の時間を過ごせる、この喫茶店は私のお気に入りだった。今日もゆっくり読書でもしようかと文庫本を持ち込んでいた。読みかけのそれの、しおりを挟んでいるページを開く。
「やあ尋乃。暇そうだね」
「……何故ここに居ると分かった」
カラン、と喫茶店に誰かが入店する音が響いて、自分には関係ない事だと無関心で小説を読み進めていたら私の目の前に大きな影が。そこに居たのは、嫌いな人間、五条悟だった。私の質問には答えずに、勝手に目の前の席へ腰を下ろす。いつもの眼帯ではなくサングラス。髪もおろされていて、なんとなく雰囲気が違う。
先ほどの返答を貰えなかった私は、会話する意思を持っていないのを分からせるように一度五条悟に向けた視線を本へ戻す。それでも何の反応もしない彼に、少々の疑問を抱きながら。
暫くして、五条悟はようやく口を開いた。
「尋乃さあ。携帯は通じるようにしておきなよ」
「え? ああ……ごめん充電切れてたわ」
自分の携帯を確認すると、しっかりばっちり充電切れ。彼の口ぶりから、何回か、少なくとも一度は電話なりなんなりアポイントメントを取ろうとしたのだろう。それは私のミスだ。といっても五条悟に懇切丁寧に謝る気はないので、事実確認を交えて軽く謝罪しておく。
「僕だったから良いけど任務の電話とかだったらどうするの」
一度の軽い謝罪では見逃してくれないらしい。それは私が悪いのだから仕方ないし、彼の言っている事は正論なのだけれど。五条悟に言われているというその事実だけが、私を原因不明の苛立ちに誘う。
「で、何の用事なの」
「あ、僕オレンジジュース飲もうかな」
呑気にメニュー表を見てるんじゃない、と言いたいのをぐっと堪える。二度目の質問も返答は貰えなかった。五条悟はさっさと注文を済ませ、少し経ってその前に宣言通りのオレンジジュースが運ばれてくる。
「子供舌」
「いいじゃん好きなの」
目を輝かせて見せるが全く可愛くない。五条悟は決して可愛い属性の男ではないのだ。世間から見ればイケメン、らしい。眼帯をしている時ならともかく、今日のようにサングラスで街を歩いている時は女性から声をかけられる事も日常茶飯事らしい。スラっとした長身にこの面持ち。性格には問題ありだと思っているが、外面だけ見ればまあ、簡潔に言えばモテるんだろう。
「何読んでんの。この前買ってた小説?」
「そう。だから話しかけないでね」
そう言うと五条悟はわかり易く頬を膨らました。重ねて言うが全く可愛くない。十九、二十歳でもあるまいし。これも彼を色目で見る女性達からしたら惹かれるポイントになるのだろうか。残念ながら私には理解出来ない。
「尋乃はさ、もうちょっと彼女の自覚をさあ」
彼女。つまり付き合っているという事。そう、付き合っているのだ。どうしてこの男の事がこんなに気に食わないのか確かめる為に。なので、彼女の自覚も何もない。持とうとも思わない。それはこの男も分かっている筈だ。故に、質が悪い。悪すぎる。
「デレ属性とか概念にないの」
「ないね。そんなの私にあったら気持ち悪いでしょ」
「確かに。笑いの種にしかならないね」
ここで絞め落としてやろうかこの男。となったがぐっと堪えた。ここは喫茶店。貴重な居場所をなくすわけにはいかない。いつも好き勝手言うこの男の口は、今日もご健在だ。
「……だから何の用なの」
「用がなかったら会っちゃいけない?」
「いけなくはないけど、態々探すなんて何かあると思うじゃん」
結果を述べてしまえば、何もなかった。何となく会いたくなったから、五条悟はそう私に伝えた。なんだその陳腐な理由は。それにしたって連絡も繋がらない彼女の居場所を態々探そうなんて思わないだろう。この男は何となくでそれをやってのけるというのだろうか。意外とまめなのかもしれない、と思った。
「いきなり現れたら尋乃僕の事どう思うかなと思って」
「……ストーカー?」
「ダヨネ」
何の意にも介さないように笑う五条悟。楽観的というかなんというか、平素なら見直してもいい事なのかもしれないけれど、如何せん現状が現状だ。
ただ前向きなのはこの男の良い所だと思う。絶対に言う気はないけれど。
「とりあえず用ないなら放ってくれな……何頼んだの」
五条悟の目の前には豪勢はパフェが運ばれてきた。待ってましたと言わんばかりの彼は、パフェを前に舌なめずりしている。
「甘いものは効率よく頭を回す為に必要なの」
「ああ……そう」
いかにも甘そうな生クリームを口に運びながら満足そうな顔をする五条悟に、私はまあいいかと暫くただ手に持っていただけの小説にまた目を通し始めた。
「尋乃も食べない?」
「食べない」
小説から目を離さずに言葉だけ返す。甘いものが嫌いなわけではないし、寧ろ好きな方なのだが、なんとなく五条悟から分けていただく、というのに気後れした。まるで彼氏彼女のようじゃないか。彼氏彼女なのだけれど。普通のそれとは、関係が違う。と、私は思っている。
「そんな事言わずに」
しかしこの五条悟という男、人が嫌がる事をするのが大好きなようで、一口貰わない事にはどうにもこうにも何も進まないようだった。私は根負けして、じゃあ一口だけ、と不本意ながらいただく事にする。
「はい、あーん」
「ちょっと待ってそれはハードルが高すぎる!」
思わず声を荒げてしまった。他にお客らしいお客は居ないとしても、マスターが居る。二人きりだってそんな事したくないのに、こんな場でなんて出来るわけがない。
それでも五条悟は諦める気がないようで。
「ほらほら、早く」
「うう……」
仕方なく差し出されたスプーンを口に頬張る。思ったより量の多いそれは口の中に完全におさめる事が出来ず、口の端についてしまっているのを思いっきり笑われた。子供っぽいと。どっちがだ、という言葉は飲み込んでおく。
「ちょっと尋乃こっち向いて」
「は……あ、ちょっと!」
ちゃっかり携帯のカメラを起動した五条に思いっきり口の端に生クリームをつけた間抜けな顔を激写された。こういう時一般的な彼氏なら彼女の生クリームをそっと取ってくれるのではないだろうか。この男にそういった考えを持つ事は意味がない事だとわかっていても少し期待してしまった自分にうんざりする。
五条悟はといえば、「ウケる」とケラケラ笑っているので、私は紙ナプキンでそっと口を拭った。
「これ待ち受けにしよ」
「馬鹿言わないでよ、嫌がらせにも程がない!?」
待ち受けなんてたまったものでもない。誰かに見られたらどうするんだ。そういう事は一切考えないんだ五条悟という男は。
「可愛い彼女の顔だよ? 見てたいじゃん」
これもきっと、計算で言っている。わかっているのに、私の顔には熱が集まっていった。お世辞にも恋愛経験豊富と言えない私は、こういう言動に対する耐性がない。赤くなってる、とからかう声にもありきたりな反論しか出来なかった。
私は五条悟がどうしてこんなにも気に食わないか結論を出す為に付き合っているのだ。好きじゃない、好きじゃない筈なんだ。
「いい加減認めなよね」
言葉は聞かないふり。ここで絆されてしまったら負けなきがして、私は規則的に並ぶ文字列に集中しようと無理やり視線を走らせた。
今度どこかにデートに行こう、なんて話している五条悟の事も、勿論知らないふりだ。楽しそうな目の前の男は、きっと次はどんな事をして辱めてやろうかと考えている事だろう。
絶対その手には乗らないぞと考えながら、不安になっている事が幸せな事なのか不幸な事なのか、今の私には判断出来なかった。