たったひとつの(4) | ナノ
拍手連載  04 

彼が見せた
たった一瞬の微笑みを 




綺麗な人間でいたかった。

財閥の直系、しがらみの多い家庭は円満であるはずもなく、いつだって欺瞞と虚構に満ち、しかしそれを歪んだ「幸せな家族」の仮面で覆い隠して。
子供の頃から、そんな家庭が嫌いだった。

だって、汚い。
無駄に着飾った両親も、媚を売るために近づいてくる他人も、金と権力に踊るこの世界も。

汚い、汚い。
だからせめて自分だけは綺麗な存在でいようと決めたのは、一体いつだったか。

中等部でも高等部でも副会長に選ばれて、気づけば王子様のようだと形容されるようになった。
微笑みを絶やさないように心がけていれば、誰もが同じように笑いかけてくれる。自分の周りだけは汚いものが排除されていくその感覚に、いつしか私は笑顔の意味を忘れた。

ただ笑っていればいい、そんな思い込みを正してくれたのは転入生の杏里だった。

『楽しくもないのに笑うなんて変だ!!』

その見た目には始め戸惑ったものの、彼の心は誰よりも綺麗だと思った。
私の痛みに気づいてくれる。私の間違いを叱ってくれる。
彼のように綺麗な人間になりたくて、私はいつだって杏里の側に居ることを望んだ。

それなのに、それを邪魔する人間がいる。


「まだいたんですか、平凡」

「………」


放課後、たまたま出くわしたこの男。
杏里に引っ付いて、私達生徒会に取り入ろうとする汚い奴。
優しい杏里はそれを許しているようだけど、私は我慢できなかった。

親衛隊に制裁の指示もしたし、私自身が手を上げたこともある。
彼を痛め付けるのは気分が良かった。

だって、そうでしょう。
私が大嫌いな汚い存在。
私の大切な、綺麗な綺麗な杏里を奪おうとする、醜い存在。
私が綺麗であるために、排除しなければならない。


「まったく、どこまでも図太い男ですね。誰も君のような醜い人間など望んでいないというのに。いっそ死んでくれれば…」

「そう、ですね」

「!?」


初めて返された言葉が肯定だったことに驚いて顔を上げれば、目の前で平凡は笑っていた。
その、柔らかな微笑みに、ぞっとする。


「自分でもわかってます。だから、もう少し待ってもらえませんか、副会長」


始まりを選べなかったのだから、終わりぐらい自分で選んでもいいだろうと。

そう言って笑いながら零した涙が、あんまり綺麗で。
動けなくなった私の横を、彼は静かにすり抜ける。
足を引きずっているのは制裁のせいだろうとぼんやり考えながら、その後ろ姿を見つめることしかできなかった。

そっと自分の手に視線を落とす。
生まれてこの方重労働などしたことのない、白く滑らかな手。けれど関節が少し赤くなっている。
これは、あの平凡を殴った名残だ。


(………汚い、)


自分の手は、こんなに汚かっただろうか。

私は間違っていないはずだ。
綺麗な杏里を守るために汚い平凡を殴りつけた。その証を残したこの手を、どうして誇りに思うこうができないのだろう。


(――綺麗、だった)


あれ程嫌悪していたというのに。

彼が見せたたった一瞬の微笑みを、私はいつまでも反芻した。



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