口火E



勇人は咥内で首を捻じ切られるような断末魔の叫びをあげた。
張り詰めた線がぷっつりと途切れた執務室で、その絶叫が空気を震わせることはない。
めった刺しにされた胸を抱き、勇人は縋るような思いで隼人を見つめ返す。
何かの拍子で頬が傷ついたんだよな? 遊びに夢中になって服が乱れちゃったんだよな?
追い詰められた獣のように血走らせて凝視する勇人の眼は、哀れにも現実を受け入れることができず、そう語りかける。
真正面からその眼差しを受けた隼人の瞳は小刻みに揺らめいたかと思うと、勇人の願いから逃れるかのようにサッと眼を逸らした。
見えない鬼の手が勇人の四肢をバラバラに引き裂いていく。激痛に呻き、助けを求め、許しを請うても鬼は勇人の血で染めた手を止めようとしない。
椅子の上で泰然と構えたライオンが、鬼をはやし立てる。
「おやおや、隼人に嫌われてしまったかな?」
鬼が勇人の頭を握りつぶした。
脳髄の飛び散るさまを見て舌なめずりしたライオンが喉を鳴らす。兎は見るも無残にライオンの前に打ち捨てられた。ヒクつく手足もライオンの食欲をそそるだけだ。
「なんだったら僕の寝室に部屋をうつすと良い。勇人の顔を毎夜見ずに済むだろう?」
立ち尽くす隼人を見ながら兎の亡骸を恍惚の表情で咀嚼するライオン。
頂点に立つ者は自尊心を高ぶらせても苦言を呈されることはなく、そこから引き摺り降ろされることもない。
隼人の唇は沈黙を保ったままだ。顔を背けて自身を拒絶する小さな彼の姿を最後に、勇人は執務室を飛び出した。
温かみある絨毯を蹴りつけ、驚いたように見やる女中の視線も構わず、勇人は走り続ける。
手足をがむしゃらに動かしながら、さまざまな感情が身の内に駆け巡るのを感じた。
幼く無邪気な笑顔を浮べる隼人と、微笑ましい気持ち。
頬を膨らませて勇人のペンケースを背中に隠す隼人と、困惑する気持ち。
「兄ちゃんが」と声を上げて泣き止まない隼人と、ひどく悲しい気持ち。
頬を染めながらじっと勇人を見つめる隼人と、霞がかった気持ち。
利央に手足を押さえつけられ涙を散らして勇人の名を叫ぶ隼人と、訳の分からない気持ち。

――本当に分からないのか?

気がついた時には自室の壁に己の額を打ちつけていた。シンメトリーの優美な壁紙を覆い隠す、安っぽい薄汚れ。
ふつふつと湧き出す粘ついた感情の渦を少しでも払えないかと拳を壁に叩き込む。熱いなにかが手の甲に散った気がしたが、どうでも良いとまた繰返した。


私物が散乱した部屋の中、勇人はベッドの上で頭を抱えていた。
あれから一週間。隼人は自室に帰ってこない。
学校には行っているのだろうが、あの出来事から全く顔を合わせていなかった。完璧に避けられている。
食事時も利央と隼人が同席することはなく、向かいに座った真央とテーブルを共にするだけだ。
最初は愛らしく思っていた従兄弟の自慢話も、今の自分にはひどく煩わしいものでしかない。
小さな彼の仕草も顔も言葉も、傲慢で自尊心の高い利央に忌々しいほど瓜二つだ。最近では真央の顔を見るのも苦痛で、疲労の溜息を飲み込むことも難しくなってきている。
しかし流石の真央も利央の所業は知らないのだろう。でなければ、ああまで元気に振舞えまい。
時たま、その憎たらしい笑顔に「お前の父親は俺の弟を犯しているんだぞ」と吐き捨てたくなるが、いくらなんでも年端のいかない子供にそんな事を言うのはと口を噤む。
あの噂話をしていた女中たちも薄々気がついてはいるのだろう。だが雇用主に牙を剥けば待っているのは解雇なうえ、そうしたとしても利央に握りつぶされるのは予想がつく。
結局、何が変る訳でもない。
どうすれば良いんだと八方塞がりな状況に打ちひしがれる。
隼人を守りたい。自分の馬鹿が原因で、隼人を獣の手に落としてしまった。大人は皆、金の奴隷だ。利央本人も殴れない。警察もだめ、学校もだめ、女中もだめ、大人もだめ、子供もだめ、隼人も……
勇人を拒絶する隼人の姿が脳裏を掠め、神経を傷めるほど奥歯を噛み締める。
隼人は既にそうするよう言い含められていたのか、それとも本心から勇人を拒絶したのか。
もし後者なら一体、今までの自分は何だったのかと空っぽの笑いを顔に転がす。
もう嫌だ。こんなこと考えたくない。あの頃に戻りたい。隼人と母親が勇人に温かく笑いかけるボロアパート。勇人の中にある最高の思い出の場所。
金色に輝く記憶の果てに、尊敬する母の姿が勇人に向かって笑顔で振り向いた。「勇人ぉ〜」と語尾を上げて少し笑いを取るような母の声音がリフレインする。
「お袋……俺、どうしたら良いのかな、隼人を守りたい、守りたいんだ、その為なら何だって出来るんだ、それが例え隼人が望まないことだったとしても……」
ぶつぶつ呟く自分の言葉に「はは……」と皮肉な笑いが零れた。
何だ。隼人を守りたいだとか言っておいて、とどのつまり自分の嫌な気持ちを追い出したいだけじゃないか。
身勝手で己のことしか考えていない自分に、もう呆れを通り越して笑いが込み上げる。
それでも浮かんでは消える隼人の顔。隼人への想いがはち切れんばかりに脳内に充満する。
どうすれば。どうすれば。
両手を組み合わせ、祈るように苦悩する勇人の視界の端で、艶やかな母の髪が、しゃらりと揺れて消えていく。
その向こう側に見たものが勇人の眼を吸い寄せた。
散乱した私物の中、ふかふかの絨毯の上に身を投げた、それ。
母の勤め先であったクラブ「Love to burn」のマッチ箱。
消え入りざま、聖母を思わせる母が慈愛に満ちた微笑を勇人に投げかけた気がした。

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