口火D



ノックもせず、勇人は無駄に格調高い扉を叩き開いた。大袈裟な悲鳴をあげる扉の留め金など、勇人の耳には全く入ってこない。
小刻みに震える総身も、真っ赤に染まる網膜も、派手に噴き出すアドレナリンも、つまらなそうに勇人を見やる男に全て直結していた。
がつんがつんと打ち鳴らすはずの勇人の足音は、血色の絨毯に吸い込まれる。
執務室に据えられた仕事机まで荒々しく歩み寄ると、光沢の乗ったそれに拳を打ち下ろしたい欲求にかられた。
奥歯を噛み締め、拳を握り、耐える。
ここで激昂して下手に暴力を振るえば、隼人と引き離される可能性があった。その場合は確実に、自分だけ屋敷から追い出される形でだろう。
屋敷に残った隼人のその後を考えると、勇人の背筋に氷水を流し込まれたような悪寒が走る。
それだけは避けねばならない、最悪の結末だった。
「どういうことか、ご説明頂けないでしょうか」
「何がかね」
革張りの椅子の上で頬杖をついた利央が眉尻を下げて苦笑を浮べる。野蛮人を前にしたような利央の眼は、憤怒を迸らせる勇人を見通すように蔑んでいた。
勇人の額に浮きあがった青筋がピクピクと波打つ。
「隼人がよくこちらに出入りしているそうですね」
ああ、と歌うような返事に、握った拳の間から赤い筋がはみ出した。
「隼人は可愛い上に話が合うからねえ……ついつい長話に付きあわせてしまうんだよ」
今、この男の口から隼人の名前が出てくることに猛烈な殺意が生まれる。くん付けの呼び方は屋敷に来た時から当たり前のようにとっぱらわれていた。
「それは結構ですが、お仕事の邪魔になるでしょう。俺が言い聞かせておきますから……」
「いやいや、寧ろ彼は僕の癒しになってくれている。それは無用の気遣いというものだ。しかし、君の親切心はありがたく頂戴しよう」
癒し、を強調した利央の言葉。あからさまに勇人を見下す、その口調。そして何より、話している途中で利央が唇に親指をゆっくり滑らせる、わざとらしくも意味を示したその仕草。
勇人の脳漿が沸点ぎりぎりまで加熱された。
駄目だ、落ち着いて冷静になれ、という声と、遠慮なく殴りつけて洗いざらい吐かせてやれ、という声がぶつかりあう。なんとか後者を抑えつけるが、内に住まう本音は確実にそちらだった。
「しかし本当に隼人が我が家に来てくれた時には喜び勇んだものさ。あの子もこの家に馴染んでくれたようだし、君の懸命な判断は賞賛されるべきだ。僕から言わせてくれたまえ。ありがとう、勇人」
神経を逆撫でする声音が勇人の心臓に嫌味ったらしく絡みついた。
金の為とは言え、鴨が葱を背負ってやって来たことを存外に突きつけられ、下唇を噛み締める。
やはり、早計だった。守るとは言っても、隼人を24時間監視している訳ではない。僅かな隙も隼人を危険に晒す可能性があったのだ。
全身に圧し掛かる自責に、眼球の奥がちかちかと火花を散らした。
急速に回転する思考で、どうすれば隼人をこの男から引き離せるのかを導きだす。
「ああ、そうそう。まあ、そんな事は絶対にないと思うのだがね。もし。もしだ。君達がそう、思春期独特の焦燥に駆られたとしよう。それで考えなしの馬鹿のように、この家を飛び出したとしたらだ」
利央の緩急をつけた言葉にこちらの思考を見透かされていると気付き、勇人の指先が一瞬で凍てついた。
「僕にも一度、扶養者になった責任があるのでね。そうだな……まず警察は勿論だが、全国の雨竜に属する社へ顔写真の通達かな。はてさて我が社はどんな所まで手が届いたかな。雨竜はそこらのチェーン店まで手を伸ばしているものでねえ。タクシーや鉄道などの交通機関、空港も入れておかないと。住宅、警備、工事現場……そうだ、忘れていた。全国の都庁や市町村なんかにも眼が利くのを忘れていたよ」
足元の絨毯に亀裂が走ったような錯覚を起こし、ぐらぐらとした眩暈に呻く。
逃げ道はなく、舌なめずりするライオンの群れに囲いこまれた絶望で打ちのめされた。小さい兎に軽いフットワークはあれど、隙間もなく壁のように立ち並び、一斉に押し寄せられれば容易く喉笛を掻き切られるだけである。
「もしもの話さ。現実には絶対に起こらないことだが……もしもだよ。その場合、君が隼人をそそのかしていたとしたら……田舎の辺境にある全寮制の学校で大人しくして貰う、という選択肢もあるにはある」
にっこりとプラスチック製の笑顔を浮べるライオンが勇人の前で爪を研ぐ。足を使えない兎に出来ることと言えば耳を立てて、その音を聞き届ける位しか出来ることはない。
ここに来てようやく勇人は己の失態を正面から思い知った。
高校など辞めるべきだったのだ。隼人のことを本当に第一に思うのならば、学歴など厭わず身を粉にして働き、自分の手で育てあげるのが唯一の道だったのだ。
自分の馬鹿さ加減に頭を打ちつけたくなる。
あの時の自分には高校を卒業することが絶対だった。
毎夜、母が酒気漂うサラリーマン親父の愚痴に相槌を打ち、稼いだ金で入れて貰った高校。途中で投げ出すことなど出来なかった。
だが、義務教育は終わっていた。その状態での最良の道は、やはり退学することだったのだ。
発狂したいほど大きな後悔の波に飲まれ、溺れていく自分を呆然と見つめる。
それでも勇人は針の穴ほどの小さな可能性に縋った。ここまで明確だというのに、縋らずにはいられなかった。
利央はまだ言葉にしていない。本当に隼人に何かしているとは限らないではないか。隼人からもそんな話は聞いていない。もしかすると利央の言葉通り、ただ話をしているだけかもしれない……
これだけあからさまだというのに諦めきれない自分に心底嫌気がさす。それでも縋らずにはいられない。縋らせてほしい。頼むから、どんなことでもするからと。
勇人が禁断の問いをしようと口を開けた時、執務室の奥にある重厚な扉のノブが回った。
ぎぃぃ……と軋む音を立てて出てきた彼に絶句する。
真っ白なYシャツの胸元を乱し、片頬を赤く腫らした隼人が呆けたように勇人を見つめ、立ち竦んでいた。

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