口火A



違和感は少しずつ目に見える形となった。
隼人が小学生になっても愛らしさは変わらない。
相変わらず「だいすき」を連呼する隼人は、やはり可愛いものだ。
勇人は控えめな笑顔で隼人にそう言われるたび弟への愛おしさが増し、その細い肩を抱き寄せ真っ白な額に口付けてしまう。
勿論、嫌がることはしない。本人も喜んでいるからの行為だった。中学生にもなって弟離れできない自分に呆れもしたが、互いが幸せなのなら何を躊躇するのか。
懸念すべきはその言葉のニュアンスである。「だいすき」の裏に潜む意味。視線が交わる時に篭る熱さ。僅かに赤面した頬。
それらは勇人の胸中に薄暗い疑問を投げかけるが、必死に正面から見ないよう努力した。
そんな時はいつも何か言いたげな隼人が、じっと勇人を見つめている。どれほど溺愛していようと、それだけは勇人は隼人を省みることが出来なかった。

隼人の「だいすき」は、この数年で勇人の心境に変化をもたらしていた。
幼稚園、小学校……とあがったところで勇人はあることに気付く。
隼人の周りには常に人がいた。切れ長のパッチリした眼はクールな雰囲気を醸し出し、友好的な態度は分け隔てなく他を受け入れる。
努力家な隼人はいつだって満点に近いテスト結果だ。体を動かす事も嫌いでないらしい。
文武両道、才色兼備を小学生の時分から体言する隼人は、かなりの人気者だったのだ。誰もが隼人の言葉を聞き、隼人と友達になりたがる。当然のことだ。
しかしそれを認識すると、勇人は胸が引き絞られるような痛みを覚えた。どろりとした黒い血を流しながら、勇人はその傷口に見てみぬふりをする。
恐ろしかった。根源を見てしまえば全てが壊れて無くなってしまうような気がしたのだ。ならば見ない方が良い。自分はこの生活に満足しているはずなのだから。
隼人がどれだけ請うたとしても、それは勇人の中の最後の防壁であった。

その日は急な天候の崩れで、横殴りの雨が降りしきっていた。
夕暮れには嵐になる見込みを発表したニュースで学校は授業取りやめ。在校生たちを早々に帰宅させたのだった。
「あ゛―――!! 兄ちゃんが! 兄ちゃんがああ!!」
「こら、勇人〜。アンタ何やったの?」
ぴしり、と母のデコピンを食らい帰宅したばかりの勇人が目を白黒させる。
「さっきから隼人が泣き止まないのよ〜。聞いても兄ちゃんがとしか言わないし。何かやっちゃったなら謝っときなさい」
「え、え、え?」
ひりつく額を押さえながら泣き叫ぶ隼人を見るが、びっくりするほど身に覚えが無い。
俺が隼人の嫌がることをした……!?
寧ろその事実に激しいショックを受ける。今まで何をするにも細心の注意を払っていたというのに何たることか。一体何がお気に召さなかったのだろう。
間違えて隼人のプリンを食べないよう専用トレイまで使っているのに、まさかうっかり食べてしまったのだろうか。
「あ゛―――!!」
はっと我に返る。悶々と思い悩んでいる場合ではない。
「ご、ごめんよ、隼人! 兄ちゃん何しちゃったのか覚えてないんだ! お願いだから教えてくれないか!」
小四の子供に縋りつく馬鹿でかい高二の図とは些か見苦しいものがあるが、この際横に置いておく。
勇人が顔を青褪めながら問いかけても隼人はポロポロと涙を零すだけ。
こんな大事なことを覚えていないなんて、と自分を殴りつけたくなったところで、ほっそりとした手が勇人の肩を触れる。
「なんだか訳アリって感じねえ。私はちょっと席を外しておくわ」
明るく染色されているにも関らず艶の乗った長髪を上品に振る母、菊花。
此方を見やり仕方ないとばかりに微笑む彼女こそ、勇人が最も敬愛する人物であった。
母子手当てがあると言っても我が家の生活は苦しい。
父は勇人の自我が形成される前に他界してしまった。つまり女手一つで二人の息子を育てているのだ。努力では賄えない部分もあるだろうに、母は一切の苦労を自分たちに見せなかった。
結婚するなら母に似た女性が良いと言えば馬鹿にされるだろうが、今でもその心に変りはない。
勇人は弟が、母が、家族が心から大好きだった。
「けど席を外すって……」
トイレと一体型のバスルーム以外は全てこの一部屋なアパートで席を外せる場所と言えば……
「ま〜ちょっち雨降ってるけど、ちょうど買い物行かなきゃいけなかったしね〜。私がいない間に和解を成立させとくよ〜に」
詩を諳んじるような調子で言った母は勇人が止める暇もなく、傘と財布を手に持ち外に出て行ってしまった。
あれで少しうっかりしている所がある。雨に足をとられて転ばなければ良いが……
「……、っ……」
「ん? 隼人?」
勇人が振り向けば隼人は既に泣き止んだ後だった。何か呟いていたようだったが、気のせいだっただろうか。
これ以上心証を悪くする訳にはいかないと、なるべく視線を隼人の高さに併せて問いかける。
「隼人?」
「ごめんなさい」
深く俯いた隼人が、ぽつりと零す。
「兄ちゃんは何もしてない。ただ構って欲しかっただけなんだ……嫌いにならないで」
はあああああっと重い息が喉を通り抜ける。怒りではなく、腰が抜けそうなほどの安堵の溜息だった。
びくびくと怯える隼人に、勇人が出来る限り最高の笑顔を面に刻む。
「俺は隼人を嫌いになんかならないよ。何があってもね」
そう言ってやると、煌く輝きが隼人の瞳に宿った。
俺はちょっと甘すぎるなあと小さく黒い頭を、がしがし撫でていると、我が家に唯一ある備え付けの電話機が甲高い音を鳴らす。
「はいはい……っと」
母からの欲しいものを聞くと称した様子伺いの電話だろうか。近くのコンビニには公衆電話があったはずだ。

しかし、受話器から飛び込んできた声は、明らかに男の切羽詰った声であった。

『雨竜菊花さんのご家族ですか!? 至急、守岡救急病院まで来てください!!』

強かったはずの雨脚が、急に遠のいた気がした。

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