口火@



燃えろ、燃えろ、燃えろ。
これは楔の炎だ。哀れな兄弟を結びつける、縁となるがいい。

ぱちぱちと細やかな火の粉が闇夜を舞う。
橙、赤、黄……
それらがウェーブを描き、妖しく踊り狂う姿に眼が離せない。
世のどんな芸術よりも魅了させる炎は、木造の一角をじわじわと嘗め尽くしていく。
その緩やかで繊細な刃先の向こうに、勇人は弟の幼少時を垣間見た。


「いぃちゃっ」
それが一歳になった弟の、初めて覚えた言葉だった。
「はいはい、隼人〜。兄ちゃんですよ〜」
自分より何倍も小さく、いたいけな手を精一杯伸ばす隼人に自然と柔らかな笑みが浮かぶ。
先日ハイハイ出来る様になった隼人が懸命に手足を駆使して勇人の元へと駆け寄った。
古ぼけた畳と染みの目立つフローリングの境目には軽い段差がある。
わ、危ない、と勇人は慌てて隼人を抱き上げる。
勇人のヒヤリとした心情も露知らず、兄の抱っこで気を良くした隼人がキャッキャとご機嫌な声をあげた。
背中のランドセルと相俟って圧し掛かる体重は決して軽いとは言いがたい。が、くりくりした隼人の目を前にしてしまえば、それも然程気にならなくなってしまう。
勇人は畳の上でこんもりと盛られた煎餅布団に向かい、声を張り上げた。
「じゃあ母さん、行って来るからー!」
「いってらっしゃい〜。ごめんね、勇人ぉ〜。保育園のひとに宜しく〜」
布団の隙間から、にゅるりと這い出た白い手が心許なげに宙をふらつく。
勤務するナイトクラブで遅番だった母は、未だほぼ夢の中のようだ。
週の半分は深夜に帰宅して朝は朝食を作った後、隼人を保育園に送り届けてから眠りにつくのだが、朝帰りとなると中々そうもいかない。
なので母が遅番の朝、忙しく立ち回るのは勇人の役目である。
面倒だと思うときもあるけれど、自分ももう八歳だ。小学三年生だ。拙くても朝食や出発準備くらい、ちゃんと出来るのだ。
たすきを通し、ちょっとばかし腰に来る隼人と肉厚なランドセルを両肩に引っ提げる。たすきがしっかり隼人を支えてくれることを確認すると、靴棚に置いてあった給食袋と体操服入れを掴みとった。
鎧武者のように重装備になった勇人は顔を突き合わせる隼人に、にかっと微笑みかける。
「じゃあ行こっか、隼人」
「あぶ」
まだ「いぃちゃ」と「まんま」しか言えないものの隼人の顔つきはしっかりしたものだ。受け答えもばっちり。
目鼻立ちは美しく整頓されており、端整かつゴージャスな美女である母によく似通っている。
背丈が大きいだけで朴訥とした容姿の自分なんかより遥かに将来有望であった。
「おっきくなったら隼人は格好良くなるぞー。きっとクラスの女子にもモテモテだな」
通学路にある白亜の洋館を横切りながら勇人がそう話しかけると、分からないなりに思うところあったのか、キャーッと声高に応える隼人。
すれ違うOLや女子高生が自分達を見てクスクス笑おうが、その隼人の満面の笑みにどんな憂いも全て吹き飛んでいった。


変化に気付いたのは、隼人が幼稚園生になって直ぐのことだ。
「兄ちゃん、だいすき」
すき、という表現を覚えて久しい隼人は暇さえあれば、勇人にその言葉を繰り返す。それ事体は日常茶飯事であり特に気にすることではない。
寧ろ好きと言ってくれて大変嬉しい。母の胎内にいた頃から愛でに愛でた弟である。その一言で今までの苦労も霧散する。
しかし―――
放課後。幼稚園まで隼人を迎えに行き、帰宅して皿洗いをしていた時だった。
まだ背が届かないので台に乗って、取れない汚れに悪戦苦闘していると制服の半ズボンを小さく引っ張られる。
んっ、と視線を下に落としてみると、両腕を後ろにまわしたスモック姿の隼人がもじもじと俯いていた。
「どうしたの、隼人」
なるべく最大限ゆっくり問いかける。
暫く逡巡した隼人だが、まるで宝物をこっそり見せるようにして後ろ手のものを勇人の眼前に翳してみせた。
「兄ちゃん、だいすき」
小さな小さな手で握っているのは、同じく小さな一輪のコスモス。
思わず目を丸くしていると、コスモスは小刻みに揺れだし、みるみる隼人の頬がリンゴのように赤くなっていく。
「だっ、大好きだってば――ッ!!」
「わあっ!?」
何の反応も返さない勇人に業を煮やしたのか、隼人がありったけの声をあげた。
余りの声量に驚いた勇人は台から足を滑らせ、重力に任せて転げ落ちてしまう。
強く背中を打ちつけ、ぐっと息が詰まる。咄嗟に頭を庇ったので大事には至らなかったことと、皿から手を離していたことに安堵の息をつく。
だが、大きな音を立てて転ぶ兄の姿を見てしまった隼人は花を差し出した状態のまま硬直した。
少しの間、呆然としていたが、やがて我に返ると痛みに呻く勇人へ一目散に飛びついた。
「にーちゃ! にーちゃ!!」
目に涙を溜めて心配を投げかける隼人を落ち着かせつつ、勇人は苦々しさを噛み締めた。
違和感は拭えない。かつて自分も、好意と共に花を手渡したこと位ある。
その相手は甘酸っぱい想いを寄せる、初恋の女の子であったのだが……
勇人は床に放り出されたコスモスの花を盗み見る。流し台から散った水滴が可憐な花弁を惨めに湿らせていた。
涙ながらに勇人の首にしがみ付く隼人の肌は柔らかで温かい。
反して予感の灯火が、勇人の心をざらりと舐めていった。

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