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 死神のブーツがザクリと白雪を踏みにじった。忙しなく眼球を巡らせる。袋小路。三方に立ちはだかる凹型のレンガ塀。逃げ道は死神が塞いでいる。登りたくとも、このどてっ腹だ。それ以前に両手は使えない。
 唯一の道は、死神と対峙するのみ。超弩級のクソッたれ。神よ。
 いいかげん腹を決め、ギッと顔を向ける。懇親の睨みを利かせても死神の目には哀れな窮鼠にしか映らないだろうが、分かっていても本能だ。
 銀世界に佇む死神の装いは黒一色。真っ白なキャンバスにインクを垂らしたかのよう。目につくロングコートやスラックスどころか、シャツにネクタイ、ご丁寧に革手袋やサングラスまで漆黒だ。反して肌は純白のパールの煌きを放ち、光の差し込み具合で赤みの増す艶やかなブロンドが、その武骨さを裏切っている。どこのハリウッドスターかってくらいだ。
 だが一番の注目どころはヤツの両手だ。ポケットに突っ込まれたそのどちらかが上がった瞬間、俺は終わる。死ぬよりヤバいことになるのを、俺は誰より理解していた。ヤツの最後の仕上げを施したのは何を隠そう、この世で一番アホタレの俺だったって訳だ。
「いけませんね。ミスター、あなたは赤ん坊の扱いをよくご存知でないようだ」
 凍りついた冬のニューヨークを嘲笑うように、水気たっぷりの唇が酷薄に釣りあがった。背筋がぶるぶるっとシェイクする。懐に抱いた温もりだけが砕けそうな膝頭を支えていた。
「生ぬるいミルクを飲ませ、メイクしたベッドに寝かせ、適度なご機嫌をとり、逐一おしめを取り替えてやり、さもなくば泣き喚く。そういう風に造られているのですよ。赤ん坊というモノは」
 早朝に啜るコーヒーみたいな声音がキンキンに冷えた心臓を熱く溶かしこむ。だが俺の頭は冷水をぶっかけられたように冴えきっていた。
――これだ。誰もがヤツの織りなす“安堵感”に騙される。対象によって悟られない範囲で調節される声音、口ぶり、表情はもちろん仕草や性格までもを自在に操る新生物。オーダーされれば己の感情や神経反応さえ作り変えてしまう。多種多様な手管で相手をいい気にさせ、思いのままに動かすのだ。むろん目的達成のためなら殺人も是とする。まるで堕落を招く悪魔、もしくは死神。人間技じゃない。事実、とんだ怪物だった。
 その怪物を俺が今どうにかしなきゃならんとは。ああ、神よ。
「くそっ。こっちに来るな。地獄に落ちやがれ!」
「地獄ですか。それはいい。遊園地より楽しそうだ。ご案内お願いできますか、ミスター」
 どうやら下手に来られるのが俺のウィークポイントらしい。たしかにいい気分ではあった。気を抜けば足をとられそうなほどに。
「ふざけやがって。人の命をなんだと思ってやがる」
「命の差別ですね。人間もコックローチも同じ生命でしょう? 残念ですがミスター、その赤ん坊も例外ではありませんよ」
 どこをどう見ても残念そうじゃない死神の足は刻一刻と迫ってくる。米神がガンガン痛みやがる。この期に及んでも良いアイディアはこれっぽっちも浮かばなかった。
 抱えた命の顔をのぞくと、一回目の誕生日もまだの瞳が無邪気に見返した。二つの澄みきった輝きに、いみじくも片恋した女の面影が浮かび上がる。

――人生一度きりのお願いよ。この子を生かして。わたし……わたしにとって、この子はあの人との愛の証なの。さあ、逃げて。うんと遠くにいって。ここは私がなんとかするわ。だから絶対にこの子を生かしてちょうだい……!

 美しく、可憐で、哀れな女。マフィアに見初められ愛人に落とされた先で、ファミリーの一人と愛を交わしてしまったモニカ。接待先のソファで儚げに佇む彼女を一目みた時から、このしみったれた小太り親父は恋の甘苦しさを思い知らされた。
 彼女の心を射止めた男に狂おしい嫉妬の炎を燃やしても、モニカの残した小さな命は守りぬきたい。命の差別というなら、あの男の命は確実にこの子よりも下だった。
「ミスター。この手荷物、あなたには少々手に余る」
「き、貴様ッ……!」 
 温かく見守るような雰囲気そのままに死神が赤ん坊をむしりとった。しまった。分かっていたはずなのに。ヤツの絶え間ない穏やかさは俺の無意識の油断を招きやがったのだ。ああ、神よ。俺ってやつは。
 手提げバッグのような適当さで首根っこを掴んだ死神がニコリと笑う。いつでも冷たい雪の上に叩き落とせるのだと言外に告げられ、アラスカにでもほっぽり出されたようにガチガチと歯が鳴りひびいた。
「や、や、やめ、やめてくれぇっ。蛇龍蓮の調整にはもっと他のやり方もあるだろう! モニカとその子に、なんの罪があるってんだ!」
「いい質問です、ミスター」
 死神の完璧なアルカイックスマイルが殊更、恐怖を煽った。
「この赤ん坊は今後、裏社会で非常にやっかいな存在となるのです。オセロ・ゲームをご存知ですか、ミスター。たった一枚の黒が、白い盤面をあっという間に塗り替える。この赤ん坊はそんな一枚なのです。逸材といってもいい。殺人狂になるか、食人鬼になるか、はたまた殺戮を奏でる指揮者になるか。個人的には非常に興味の湧くところではありますが、やはり蛇龍連としては世界のバランスが最優先事項でしてね。つまり、ここで始末するのが一番手っ取り早い、ということです」
「イカれてやがるぜ! 赤ん坊の未来が今の段階で分かってたまるかってんだ!」
「そう思っていた時期が私にもありましたが、いやでも理解させられますよ。流石にもう懲りました。放っておけば私一人の手では負えなくなるかもしれない」
 意味不明なことをぬかす死神の手が赤ん坊を左右に揺らす。遊んでもらっていると思っているのか、はたまたこの死神の魔力なのか、殺される寸前の赤ん坊は嬉しそうに笑み崩れていた。
 その微笑みの向こうに、目に染みるほど鮮やかなモニカが見える――
「誰だ」
 軋んだ胸に穏やかな囁きが、ひたりと忍び寄る。
「罪なきモニカを唆した男。それは誰だ」
 ゆりかごを揺らす聖母の声音。今ある意識が遠ざかっていく。乾ききった唇が自然と一点に引き寄せられた。ワッと押し寄せる殺意に目眩がする。
 殺しても殺し足りないあの男。無口で乱暴でスカしてやがるあの男! 俺からモニカを奪いやがったクソッタレが!
「フランコ。フランコ・マルチェッロ……」
 降りしきる雪の向こうで、黒い癖っ毛が振り返った。右手には茶色い紙袋。駐車場だろうか、あたりはトヨタ車がところ狭しと陣取り、そして何故だか潮の臭いがして……
 はたと気づけば赤ん坊は俺の懐で笑っていた。いつの間にか通話を終えたらしい死神は端末をポケットに押し込んでいた。

 いつだ? いつからヤツの術中だった? ヤツの手が動いたのは、いつからだった!?

 ずるずると腰の抜けた俺に合わせて死神が恭しく膝を折った。死神の隙を突こうなど、どだい無理な話だったのだ。
「ミスター、赤ん坊の命が惜しいか」
 がくがくと顎が揺れる。顔面の異様な冷たさに気づいた。滂沱の涙と洟水だった。
 脳味噌は馬鹿のようにストップしている。頭の片隅で「終わった」と思ったが、それだけだった。
「では今から“それ”の名前はクリストファだ。こっちを見ろ。ミスター、ティム・ウィルソン」
 視点の合わない眼球が強烈に吸い寄せられる。指先でずらされたサングラスから除くもの。奥底から湧き出る砂金の光をまぶしながら、血の滴るような真っ赤な瞳が俺を映し、嗤っていた。
 神よ。


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bkm
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