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 雨竜真央はもういない。
 ダムの淡々とした言葉に、誇り高き金色の瞳がまんまるに見開かれる。満月みたいだと関心しながら椎葉はダムの背中越しに、この前まで神さまと崇められていた男を見やった。

 数刻前、薄暗い廊下で打ち捨てられた彼の姿を思い出す。
 大老側の幹部である鬼北――もといラオ・ヤンが気絶状態のこの男を引きずり、自室に戻る途中だったダムの前で見せつけるように投げ捨てたのだ。一瞥することなく去っていったラオ・ヤンとは対照的に、ダムは床に転がされた男をしばし静観していた。
 椎葉はラジじゃない。感情を読みとる能力なんてない。超能力者じゃあるまいし逐一、ダムの思考を探るなどできやしない。けれど数年の付き合いで信頼できるかどうかは承知している。沈黙の後、ダムが床の男を抱え上げた時も椎葉は笑みを浮かべるだけだった。

 思考を唖然と立ちすくんだ男に戻す。椎葉はデスクの光源を頼りに、ぼんやり光を跳ね返す男をくまなく観察した。
 ギリシャ神を思わせる顔立ち、軍服の上からでも伺える均整のとれた体躯、優雅な佇まいの中にはどこか彼特有の頑固さが垣間見える。
 椎葉は内心、首を傾げた。何か妙な違和感を覚える。この男を見るのは三度目。最初は荒い映像の中で、その次は死んだように眠る姿でだ。その後は椎葉が席を外した折に起き出していたらしく以降は目にしていない。つまり覚醒した状態のこの男をしっかり見るのは初めてだ。だから確信めいたことは言えないのだけれど……。
 ダムの自室に担ぎ込まれ、寝台の上で再度目覚めた男は怪訝に辺りを窺い、状況の説明をダムに求めた。比較的とっつきやすそうな椎葉より威圧感はあっても情報を持っていそうなダムを選んだあたりで彼の人となりが見えた気がする。話をしながら身繕いを整えつつ寝台から降り、いつでも逃げられるようにしているのが刑務所にいた頃の自分と重なった。
 ダムは簡潔に彼の問いに応じ、雨竜真央の所在についても答えた。
「壊れてゴミになったそうだ。居住区画外に運ばれたようだから、そのうち消されるだろう」
 よかったな、とダムは機械的に締めくくった。
 絶句した男がぎりぎりまで疑ったのは無理もないと思う。男はダムの真意を見極めようと矢継ぎ早にあれこれ質問していたが、ダムの言葉がやがて真実だと確信に至り――かくりと膝が折れた。
 すぐ傍にいたダムが無感情に支える。その動作がフォークリフトかなんかの機械みたいに見えて椎葉は苦笑した。笑いは、すぐに消えた。
「本当、なのか」
 震えた声でダムの白衣に男が縋りつく。
「本当に、あいつは。雨竜真央は、もう俺の前に現れない、のか?」
 男は泣いていた。涙の筋で頬が覆われても追従するように溢れる雫は止まらなかった。自分では泣いていると気づいていないのかもしれない。それほど無我夢中でその事実を再確認していた。男はしきりにダムに問いかけ、ダムも淡々と同じ言葉を繰り返す。
 気の遠くなるような応答の末、男はその場でへたりこんでしまった。
「ありゃ」
 助け起こそうと一歩足を踏みだそうとしたところで椎葉が踏みとどまる。男は嗚咽を漏らしていた。きしむ歯の隙間から苦しげに呻かせ、堪え……水風船が弾けた。
 ダムの自室に血反吐を吐く勢いの号泣が突き上げる。
 こちらの胸まで引き裂くような轟音に椎葉はゆるく眉をしかめた。男の涙はどこから来るのだろう。感情の在処が分からない。きっと男にも分からないだろう。そんな泣き方だ。
 歓喜、安堵、怒り、絶望、悲しみ……考えつく感情ぜんぶが濁り混ざったような、判別しようのない赤ん坊の泣き声だと椎葉は思った。同時に、雨竜真央がいなくなってくれて本当によかったと吐息をつく。きっとあいつは俺の知らない所でも厄災を撒き散らしていたんだろう。それでいて嵐の目がごとく自分だけは安全な場所で悠々自適にすごしていたに違いない。ふとニタニタ歪んだ父親の顔がよぎり、頭をふった。冗談じゃない。
 気づけば涙の潮は引いたらしく、肩の震えを残して男は顔をあげた。豊かな金髪は赤みが抜けてプラチナブロンドの椎葉と少し似ている。椎葉は親近感に抗えず唇を緩めた。
「俺、椎葉光っ! そっちのブアイソ男はダムってーの。よろしくな!」
「は? あ、ああ。よろしく……」
 まごついているのは泣き顔という醜態をみせてしまったことで恥ずかしがっているのだろう。気にするなという意味を込め、椎葉はニカッと笑いかけた。
「おうっ。んで、お前の名前は」
「くだらん。お前の仲良しごっこは俺のいない時に済ませろ」
 なんだようと唇を尖らせ、会話を断ち切ったダムを睨むも相変わらずの鉄面皮。コミュニケーションは大事だと思うぜと言ってやりたいが、言った所で無視されるのはお決まりだ。しょうがねえなあと肩を竦めた時、黙っていた男がおずおずと唇を開いた。
「もうひとつだけ聞きたい。利央はどこにいるんだ」
 妙な質問だと不審に思いながら椎葉はダムの目尻がピクリと動いたのを見逃さなかった。男がへたりこんだ時、巻き添えを食って膝を落としていたダムが静かに告げる。
「雨竜利央か。ここにはいない」
「……そうなのか?」
 真っ直ぐダムを見つめる金色の瞳はただ純粋に驚いていた。
「何故そう思う」
「ここが蛇龍連という組織の本部だということは理解している。だがそれでも俺には分かったぞ。この建造物のそこかしこに利央の気配や息遣いを感じる。全く別の場所にいるのに、俺はまだあの地下室にいるようだ」
 椎葉は腕の中の男を凝視するダムの背中に戦慄の二文字が走ったのを確かに感じていた。


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bkm
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