あなたが好きです

06. XYZ (end)

「赤葦、さん……?」

 彼女の美しい唇が俺の名前を呼んだ時、全てが終わったと思った。






 天井照明のパープルライトが眩しい。
 黒尾さんの後に続くように革でできたソファーに腰を下ろして、いつも通り挨拶をしようとした時、黒尾さんにおもてなしを受けていた女性が目を見開いて俺を見据えていた。勿論、俺も彼女の姿に瞠目し、全身が強ばったのは言わずもがなだ。
 震える唇で俺の名前を呼んだ名前さんに、「え、知り合い?」と怪訝し眉を寄せたのは黒尾さんである。
 基本的に、ケイジと呼ばれることが多いこの店内で、『赤葦さん』と女性の声がなぞったことへの違和感と、それが最愛である名前さんだったことに、俺の心臓はばくばくと暴れた。

 そして今は、気を利かせてくれたのか、黒尾さんがバックルームへと消えて、俺と名前さんの2人きりだ。台風が近づいてきているせいで客足が頗る悪い店内では、今接客しているのは白布と二口と菅原さんと澤村さんだけ。しかし、それぞれのお客様はそれぞれのホストの接客に夢中なのでこちらを気にするものはいない。
 正直、その台風で俺と彼女を纏っている気まずい空気も吹き飛ばして欲しいほどだ。今俺たちの間にある音は、黒尾さんが離席する前に注いだリキュールが入ったグラスを、名前さんが持ち、口許に傾ける音だけ。そして、俺のはちきれそうな心臓の音だけである。

 いつもはシンセサイザーが響く軽快なBGMなくせに、今日に限ってムーディー感漂うBGMは誰の差し金だろう。

 俺自身、お客サマに対してはどちらかというと聞き専に徹することが多く、聞き上手だと言われることを自負している。お客サマが甘えてくる時はひたすら甘やかして、お客サマが愚痴を零す時は気の済むまで話を聞くことが多い。だからこそ、それが仇になるとは思わなかった。こういう時の切り出し方を、俺は知らなかったのだ。

 とりあえずまずは謝るべきだ。きっと怒られてそしてフラれると思う。でも、まずは。謝らないといけない。

「名前さん、あの……」
「はい……」

 やっと口を開いた俺を、グラスを置いた名前さんが見つめる。長い睫毛にパープルライトが反射して凄く綺麗だ。ムードを作るために薄暗く設定されたこの部屋で、真っ直ぐと俺を見つめる眩燿さに、目眩を起こしてしまいそうだった。

「俺は、ホストです」
「……そう、ですね……」

 無様にもたどたどしく真実を告げると、名前さんの眉が悲しそうに垂れる。あぁ、やはりこの顔をさせてしまった。今にも泣いてしまいそうな名前さんに、手を差し伸ばして頭を撫でる資格は俺にはもうない。
 ぎゅうっと膝の上で拳を作り、母指球に爪を立てた。

「営業マンはというのは嘘です。嘘をついていて、すみません」
「……」

 ゆっくりと頭を下げた。本当は土下座でもしたかったけど、さすがにそれは目立つ。ホスト店で、ホストが客に土下座をする光景なんて異質だ。俺ならまだしも、名前さんにまで迷惑がかかってしまう。
 双眸を伏せ何かを思案していた名前さんが、ゆっくりと息を吐いて口を開いた。どんな罵倒が来るだろう。どんな言葉でも俺は受け止めるしかない。しかし、

「知っていました」
「え……?」
「赤葦さんがホストなこと、知っていました……」

 思いもよらない名前さんからの申告に、ばくばくと暴れていた心臓が一旦止まり、その代わり背中を冷たい汗が流れ、シャツを濡らした。ジャケットが酷く重たく感じる。

「あ、確信があったわけじゃないです。なのかな? って思っていただけなので……」

 慌てたように顔の前でぶんぶんと手を振る姿は素直で愛らしい。けれど、今はその素直さが酷く怖かった。だって、名前さんには俺がホストだということは言っていない。

「ど、どうして」

 情けない声が辺りに浸潤する。

「サラリーマンにしてはとても高いスーツを着ているんだなって思っていました。それに、初めて出会った時もこの前駆けつけてくれた時もいつもお酒の香りがしていました。だから、もしかしたら、そうなのかなって……」

 まるで母親や教師に罪を懺悔する口振りだ。その顔は、本来は俺がするべきなのに。ということは、彼女は俺がホストかもしれないと思いながらも、吐き続ける虚言を受け止めていたというのか。

「本当に、すみませんでした……」

 腹の底から声を絞り出して、もう一度謝辞を述べれば、名前さんは泣きそうな顔でフルフルと首を横に振った。この反応はきっと、彼女の中でホストというものは嫌悪する類なのだろう。
 それはそうだと思う。付き合っている男が嘘をついてまでホストをしていただなんて、俺が名前さんの立場だったら絶対にキレている。

「やはりホストはお嫌いですよね……」

 分かりきったことを訊く愚かさが醜い。いっそう嫌いだと罵って貰った方が諦めがつきそうで、名前さんの口から出てくるだろう『嫌い』という3文字を受け止めるために奥歯を噛み締めた――

「へ? あ、嫌いじゃないですよ」

 ――はずだった。

「え?」

 先程から名前さんの答えは俺の予想を覆していく鋭さがある。まるで凶器のようだ。世界一優しい凶器は、俺の心臓を容赦なくザクザクと刺していく。

「嫌いでは無いです。だって、兄がホストですし」
「え? あ、たしかに……」
「私の家父子家庭で、父と兄と祖父母と一緒に住んでいたんです。父は祖父母と私と兄を養うために沢山働いてくれました。そして兄は、私を大学に行かせるためにホストをしてまで……」
「……」
「だから、ホストは嫌いでは無いです」

 顔を綻ばせて、目尻を皺ばめながら名前さんがゆっくりと話してくれた。黒尾さん家が父子家庭だということはなんとなく知っていたが、黒尾さんがホストとして働く背景に、名前さんの大学事情があったことまでは知らなかった。

「たしかにここで会った時はビックリしましたし、赤葦さんがホストでちょっぴりショックでした」
「すみません……嘘をついてしまって……」
「あ、違うんです。誰しも言えない事情はありますし、そういう面は兄を見ていますから何となく分かります。ショックだったのは、私が好きな赤葦さんの魅力を他の子達も知っているんだなあと思うとちょっとだけ寂しくて……」

 少しだけ恥ずかしそうに顔を伏せて言う名前さんの言葉はやはり凶器だと思う。
 幻聴じゃないだろうか、夢ではないだろうかと手の甲を抓ってみたが、痛みはきちんとあった。
 彼女が始終泣きそうな顔をしていた理由がそれならば、この人はなんて可愛い人なのだろう。

「赤葦さん」
「はい」
「もし可能であれば、これからも私と一緒にいてください。きっと赤葦さんがこの仕事に就いていることにも理由があると思いますし、私はホストをしているあなたも好きです。だからやめて欲しいとかは言いません。だからもし、もし、まだチャンスがあるのなら私に赤葦京治さんの時間をください」
「っ、そんなの、」

 そんなの、いくらでも――。

 双眸に涙を貯めて懇願する名前さんの腕を引いて、その小さな体を腕の中に閉じ込めた。きっと周りからはホストからのサービスにしか見えないだろうけれど、今は丁度いい。
 じんわりと肩を濡らす名前さんの顔は、俺だけが見られればいい。

「赤葦さん」
「はい」
「あなたが好きです」

 うん、ホストやめよう。














          **


 バックルームに戻ると、双眸を煌々とさせている及川さんと木兎さんと木葉さんが立っていた。この人たち、本当に暇か。

「なーに、赤葦クン。お姫様にしてはお熱いんじゃない?」
「名前と知り合いとか俺聞いてねえよ?」

 右に及川さん、左に木兎さんと、2人のパワーゴリラに挟まれてしまって身動きが取れないが、悩んできたことが解決したどころか更なる幸せまで受け取ってしまった今の俺は、なんだって我慢ができる。

「それよりもさぁ、どこかのシスコン野郎が超落ち込んでるから挨拶に行ってこいよ」

 同じく楽しそうに笑う木葉さんが一角を指した先、これでもかと顔を顰めている孤爪と、その肩に項垂れるようにして寄りかかる奇妙な寝癖がいた。なんでも我慢できると思ったけど、やっぱり前言撤回していいかな。

 けれど、いつかはご挨拶に行かなければいけないだろうし意図がなかったとは言え、ある種キューピットになってくれたお兄さんにご挨拶に行くのは大事だ。
 左右にゴリラを引き連れて項垂れる黒尾さんの前に立てば、「赤葦ぃ……お前、俺の天使を……」とくぐもった声が聞こえた。たしかに、あの人は自慢したくなるほど可愛いし、黒尾さんが言う通りあなたの妹は世界一可愛いです。

「黒尾さん」
「あー?」
「俺が惚れた女性は黒尾さんの妹でした」

 俺の言葉に、隣で及川さんと木兎さん、後ろで木葉さん、前の方で孤爪が吹き出した。














〜Fin〜

XYZ(エクスワイズィー)
カクテル言葉:永遠にあなたのもの








▽△

ホストパロこれにて完結となります。
番外編では他ホストたちの絡みや黒尾さんと妹ちゃんのお話などを書いて行きたいと思います。
これからもお付き合いいただければ幸いです。
ご愛読いただきありがとうございました。


title:溺れる覚悟 様