赤葦くんと○○ちゃん

あの日の私


注:モブ女子視点
こういう世界もあるのかもしれない







 女は今日という日を楽しみにしていた。
 一年に数回ある交流試合の内の2日間。都内屈指の強豪と呼ばれる梟谷学園と当たることを知ったのは、数日前だった。うちの学校は強豪と呼ばれる強さもなく、けれども決して弱くもない。インターハイをかけた高体連にて、ベスト16入りを果たした功績が、今の3年に春高まで残るという選択肢を与えただけのこと。

 梟谷と当たると知った部員の反応は三者三葉であった。ゲッと顔を顰めた者もいれば、交流試合で良かったと安堵した者もいる。女もどちらかといえば後者だが、『良かった』の根本が違った。薄情な奴だという自覚はある。

 女には想い人がいた。強豪梟谷にて、副主将という肩書と役割を持つ男の話だ。きっかけを辿ることは容易い。3か月前のことだが、あの瞬間を今でも鮮明に覚えている。

 3年間マネージャー業を真面目に取り組んでいたとはいえ、華奢な彼女にはボールが数個入ったバッグも、救急バッグも、捲り式のシューダスターシートも、ドリンクの粉末もいつだって重い。学校での練習ならば比較的近くにある水道も、大会となれば別。いくつかある水飲み場を、譲り合いの精神で他校のマネや1年と共有しなければいけない。手が空いている部員がいれば手伝ってくれることも屡、しかしウォームアップが始まってしまえば勿論そちらに精を出す。マネージャーは1人ないし2人で準備をするしかない。
 その日も、彼女はマネジメントに取り組んでいた。ドリンク作りとテーピング巻きを手分けして行い、タイムテーブルを確認し、タオルの補充も忘れない。まだ試合が始まってもいないのに、足は重く体が億劫に感じてきた頃。たしか、体調もあまりよろしくなかったことも相俟って。くらりと貧血を起こしたのは、階段を上がってからのことだった。あと一歩で頂上というタイミングで、視界がぷつんと暗くなり、胸の悪さが体を一瞬にして蝕んだ。「あ、やばい」朦朧とする意識の中で、ただそれだけが分かった。というか、自覚した。
 タイミング的には、後ろに転がり落ちるコンマ5秒前。いっそう訪れる痛みもすべて覚悟した時、がしりと逞しい腕が女の体を抑えた。「あっぶね」そう聞こえた気がした。

 鼻腔を擽る制汗剤の香りと、支えられた感触、聴き慣れない聊か焦りを含んだ声。女の意識がふっと浮かび上がるどころか、一気に覚醒してみせると、こちらを窺う深い青色と交わった。随分と綺麗な瞳だと思う。
 恥ずかしながら、女は白いジャージを纏う男の正体を知らなかった。大会関係者或いは選手だということは勿論理解しているが。ここは日本の中心である東京で、その日はインターハイに向けた高体連。見学や観客含めてごった返している状況で、女が見ず知らずの選手を把握しているわけもない。
 たとえそれが、全国大会常連校梟谷学園高校の副主将で、全国5本の指に入るスパイカーにボールをトスを上げているセッターだったとしてもだ。そんな女が赤葦の正体に気付いたのは、聞こえた名前のおかげである。

「赤葦! ナイス!」
「ありがとうございます、木兎さん」

 誰かが云った。きっと、後ろにてぞろぞろと階段を上っている同じく梟谷学園のメンツの誰か。
そして女はハッとする。選手に明るくない彼女とはいえ、木兎光太郎の名前はよく知っていた。この人たち、梟谷学園だ……。しかしそれ以上に、惹かれるのは支えてくれたこの人。
 しっかりと作られている体にしては聊か小さすぎる顔は涼しげで整っている。香った柔軟剤の香りは、太陽の元で干された布団のような柔らかさがあり、シトラスの制汗剤も心地がいい。どくん、と心臓が波立ち、気づけばぼーっと恍惚と見つめていた。
 赤葦は良くも悪くも鈍感だった。否、鋭さは一級品であるのだが、元より熱い視線には眼中に無い。女の熱を持つ視線に気づくことなく、「気をつけて」と声をかけては広い背中をこちらへ向けて去っていく。その姿がまた、ヒーローの様だと女は感じた。いつだか見た、名を名乗るものでもない。と去っていく侍のように。特に大河ドラマの趣味はないが、とにかく格好良かった。女の心を一瞬で盗んでいく。

 勿論当の本人も、部員たちも、同じくマネージャーを務めるひとつ下の後輩さえも、女の一目惚れから始まった小さな初恋には気づいていない。交流戦が数回あると言えど、面識なんてものはなく、期待さえもできない。この恋はひっそりと終わりを告げるのだ。そう自己完結していたはずだった。
 しかしやってきた青天の霹靂。今日の交流戦はあの赤葦たちが相手。本来であれば、後輩育成のために交流戦は積極的に後輩マネにベンチに入ってもらうが、これだけは譲ってほしいと内心懇願し、次の試合に入ってもらうことを約束した。真面目な後輩マネは特に不審がることはなかった。
 相手が梟谷だということで、チームメイトが三者三葉阿鼻叫喚する中、女は喜びに身を震わせていた。薄情な話だと思う。
 そもそも交流戦ならばマネージャーが2人まで入れることを思い出して、自身の必死さに失笑したのは言うまでもない。閑話休題。





          **

 試合で纏うユニフォームを決めるのは、マネージャーの仕事のひとつである。主審の元へと呼ばれ、色が被らないように粒選りする。女も自チームの青色ユニフォームとリベロ用の黒のユニフォームを手に、指定された場所へと向かった。
 梟谷のマネージャーは美人で有名である。顔が小さくひとつひとつのパーツが整った彼女たちは、なんてことなくけれども大事そうに白いユニフォームを持っていた。あの日から女は幾度となく梟谷の試合を客席から見てきたが、相変わらず綺麗な白。

 ユニフォーム選別は比較的すぐに終わった。バスケやハンドボールやサッカーのようにフィールド内で選手が交わる競技ならまだしも、バレーはネットを挟むので、さほど厳しいジャッジはない。両校の持つユニフォームに色被りがなかったことも相俟って。
 解散を促す主審に、軽く一礼をして踵を返すマネージャーたちだが、女は後ろ髪を引かれる想いもあった。再三言うが、薄情な奴だという自覚はある。しかし今日、いや、今ばかりは許してほしいと内省独り言ちる。
 今の学校に入学したこと、男子バレー部のマネージャーになったことに後悔なんて物は勿論ない。欲すらもない。だからこそ、眺めるくらいならば許してほしいと祈る。






          **

 一言で言えば、圧巻だった。さすがは全国常連校。インターハイが8年連連続だったか、春高が9年連続だったか。いつだか調べ得た記憶は曖昧だが、毎回オレンジコートに靴底をつけている彼らの試合は言うなれば圧巻だった。
 やっとうちのブロッカーが、大エースのスパイカーに慣れてきた時は、すでに梟谷が2セット目の15点めを取得し、我がチームと7点もの差をつけていた。そこで相手チームのセッター、もとい想い人の赤葦が若干手法を変えたのだ。今までスパイカーとの連携やセットアップが多かったトスコースを、ミドルブロッカーとのクイックやバックアタック、或いはツーアタックを中心に変える。その手法の裏に、大エースのしょぼくれモードなんてものが関わっていることは、女含めて我がチームは知らない。
 ひっそりと想いを寄せている優秀なセッターは、2年で副主将だったか。心を奪われたとはいえ、赤葦に対してさほど明るくない女は、インターハイ予選時に配られたプログラムを思い出す。恋をしたあの日、我がチームが集う席にて急いで広げたプログラムに、たしかに副主将のマークがついていて感服したはずだ。
 すっかりと梟谷のファンとなり、幾度となく見てきた試合でも、赤葦の秀逸具合には舌を巻いたものだ。皆がキャプテンの木兎を警戒し、落雷の如く次から次へと降り注ぐ攻撃に選手たちが顔を顰めている中、女はただひたすらに赤葦を見詰める。熱く、熱く。

 赤葦がトスを上げれば、木兎の手の中へと吸い込まれて、気づけば自分のコートの中。スコアをつけることも忘れる程魅了されていたのは、なにも焦がれる女だけではない。戦うたびに、我がチームの精鋭たちも唖然とし悔しで、でも称賛し魅了され続けた。結局ストレート負け。これが交流戦で良かったと、誰もが安堵した。

 決して悔しくないわけがなかった。薄情だと自覚する女だって、立派な部員の一員でありマネージャーである。けれども同時に女は満足だった。あの人ーー赤葦さんの試合をこんなにも近くで見られた。溢れんばかりの熱い視線は、もっと熱気の籠ったコート内に掻き消されたから誰にもバレていることはないと思う。実際隣にいた後輩マネージャーだって、彼女の焦がれる恋模様に気付くことはなかった。



「次の試合何時からでしたっけ」

 後輩がポケットに入れていた、少し皺が出来たタイムテーブルを取り出しながら言う。この後輩は、訊くだけではなく自分で調べる姿勢を見せるところが関心深い。中学時代プレイヤーだったという後輩は、部活特有の礼儀も携えており、仕事も真面目で、何分愛想もいい。とてもいい後輩だ。
 覗いたタイムテーブルに書かれたわが校の名前は、次は2時間後で相手は音駒高校。梟谷のような攻撃型チームとは違って、守備重視のチーム。こちらも今年のインターハイ出場は逃したものの都内予選ベスト8入りだったか。

「これしまったらご飯食べちゃおうか」 

 マネージャーの自分たちはともかく、選手たちは食後の燃費の良し悪しを見計らい、食事を済ませなければいけない。実際、選手たちは観覧席にて弁当やおにぎりに口をつけている。お昼時だからか、疎らに漂う飲食類の香りを辿っても、他校も次第に昼食を取っているらしい。後輩が頷いたことを確認した女は、手に持っていたテーピングをバッグの中へと入れた。いや、正確には入れようとした。

「っ、」

 観覧席の隣ブロックに座るは、あの、梟谷――

「あっかあし〜! 俺飲み物買ってくる!」
「俺もトイレに行ってきます。迷子にならないでくださいね」
「ならねぇよ!」

――女はハッとした。ルンルンと鼻歌を奏でて、アップの走り込みをする選手の邪魔にならないように通路へと消えてく背中と、その一歩後ろをこちらも邪魔にならないようにスマートフォンを確認しながら歩く背中を2秒見送る。そして、気づけば体が動いていた。持っていたテーピングを押し込むと、代わりに椅子に置いていたスマートフォンと財布を手に取った。後ろで後輩が目を剥いていたが、女に気にする余裕はない。








          **

 言い訳をさせてもらえるならば、別にこうしてストーカーまがいなことをするつもりは毛頭なかった。後輩マネにトイレ行くと言ったのか、飲み物買ってくると言ったのか、それすらも思い出せないほど、女は無意識のうちに駆け出していたのだ。
 少し距離を開けて歩く赤葦は、スマートフォンを耳に当てて誰かに電話しながら歩いている。誰に電話しているのか、どんなことを話しているのかはこの距離では分かるまい。ジャージを着た人間が行き来する中で、同じ方向へと足を進めている者も勿論ほかにもいるので、抜き足差し足と足音を忍ばせる必要はないはずだ。
 しかし、女のちょっとした罪悪感と恋心によって生まれた羞恥が音を消す。周りからはただ歩いている人間に見える行動も、女の中では慎重に慎重を重ねている。

 何度も言うが、彼女は今の学校に進学したことに不満も後悔もない。薄情だという自覚もあるし、今の部員も卒業した先輩たちのことも好きだ。大好きだ。梟谷へと進学したいかと言われたら、それまた悩むだろう。もしかしたら首を横に振るかもしれない。
 しかし、人間一度欲を叶えてしまうと、次から次へと欲深くなってしまう。女も例外ではなく、近くで試合が見たいという感情が、話しかけたい認知されたいにまでカーストを上げてしまった。きっとその欲が、こうして大胆な行為に及んだひとつの要因なのかもしれない。
 女は、深く息を吸った。声、かけたいなぁ。
一世一代の大勝負。大丈夫、助けてもらったあの時のお礼をすればいい。鶴の恩返しみたいに。女は正当な理由を見つけて、誰に聞かせるわけもない言い訳をする。
 赤葦はお目当てのトイレを過ぎて、そして、立ち止まった広く大きな背中。スマートフォンを耳から離して長い指が画面をタップする。
 女は深く息を吸った。「あの!」

「京治」

 女の声を遮ぎり、駆け寄ろうとした足を止めさせた要因は、こちらへと手を振る女の子。正確に言えば、赤葦に手を振っている梟谷の制服を着た女子生徒。自分が呼ばれたわけではないのに、女はびくりと焼きたてのポップコーンのように弾けさせると、意味もなく柱に隠れた。先ほどまで賑やかだった通路と一変して、トイレ前には人影が少ない。ただの偶然だろうが、どうしたものか。
 格好はまるでストーキング行為だが、これまた動かしたのは本能だった。

 女はそっと様子を窺う。あちらからは死角になっていることが幸いか、視線の先に佇む白いジャージの隣に立つ制服の女子生徒には気づかれていない。どうしたものか、ここからは赤葦の声も女子生徒の声聞こえない。
 恋は盲目と言うが、耳まで馬鹿になったか。なんて危惧するが、実際は2人とも声が小さいだけ。まるでこっそりと行われている逢瀬のよう。ただただ、柱を超えた前で行われている二人のやり取りを、息を潜めて見据えることしかできない。

 声こそ聞こえないものの、随分と親し気な姿。どくん、と女の心臓が弾ける。ただただ仲がいいだけじゃない。そんな、一種の極めて抽象的な見解はきっと女が同族だからか。部員とだって比較的仲がいい。教室に行けばあんなやり取り、普通にある。しかし、2人は違う。言葉にするには難しく形容し難いなにか。いつだか抱いた胸の悪さがぐるぐると蜷局を巻く。一刻も早く、ここを去りたい。起きる眩暈と、動悸が酷く苦しい。襟元を撫でるように顔を伏せ、息づいた時だった。

「うん、応援してて」
「勿論!」

 咄嗟に女が顔を上げ音源を見つめたのは、これまた本能的な話。そして、後悔する。重なる影は、人がいないことを前提としている。茶色いローファーで背伸びをして赤葦の首に腕を回す情景。その姿を、唇を、周りから大事なものを隠すように、背中を丸めて、重ねているのは紛れもなく赤葦京治だった。