ただいま、おかえり

 都内某所。一等地でありながら、繁華街の喧騒さから離れている閑静な土地のマンション最上階が、悟と名前が住む家である。高級住宅街と名高いこの地区は、あらゆる分野の社長が住むことが多く、特にこのマンションはパパラッチ対策などがしっかりとされていた。
 住人も秘密主義であるからこそ、悟の婚姻が公になったことは無い。悟はともかく、マネージャーという裏方に属する名前の世間的知名度が一般人並みということもひとつの要因ではあるが。

 伊地知が運転する車から降りて、胸を躍らせながらマンションの敷居を跨いだ悟は、コンシェルジュの一礼に見送られて、エレベーターのボタンを押した。メッセージアプリによれば、一足先に名前が帰っているらしい。昼間は硝子があんなことを言っていたが、どうやらきちんと離してくれたらしい。何だかんだ、可愛いマネージャーを揶揄いたかっただけなのだ。
 早く大好きな奥さんに会いたい。会ってぎゅうぎゅうに抱きしめて、真正面から愛らしい笑顔を見詰めたい。防犯面を考慮して最上階を選んだが、今はその距離さえもどかしかった。
 そうしてやっと辿り着いた我が家。インターフォンを鳴らすが、待てど暮らせど名前が出てくることは無かった。もしかして出かけているのだろうか、それとも先に風呂でも入っているのだろうか。
 一緒に入ろうねとハートマーク付きで送ったが、恥ずかしがり屋の彼女なので却下されてしまったのかもしれない。
 仕方が無いので、カードキーで開けて中へと入ると、美味しそうな香りが漂ってきた。料理は決して得意ではなかった彼女がーーというよりも悟の方ができてしまうーーここまで作られるようになったのは悟のおかげでもある。

「名前ー、ただいまー」

 玄関で声をかけてみるが、お迎えはない。三和土には彼女が履いていた靴が置かれているので、きっと家の中にはいるはずだ。ではやはり風呂場だろうか。
 靴を脱いでリビングまで向かう。道中にある風呂場を通るが、如何せん使っている気配はなかった。さてどこへ行ってしまったのか。不思議に思いながらリビングに続くドアを開けると、大きいソファの上で眠る名前の姿があった。
 悟は顔を綻ばせ、彼女の前にしゃがむ。ふくふくと眠る頬を人差し指で撫でると、上下交ざっている睫毛が揺れた。そして、ゆっくりと開かれる。

「……五条さん?」
「そうだよ。というか君も五条さんだからね」
「おかえりなさい」
「うん、ただいま」

 へにゃり。もしこの世界が効果音が視認できる世界だったら、きっとそんな音が書かれているだろう。寝起きも相まって、彼女を包む雰囲気がいつも以上に軟らかい。

「ご飯食べた?」
「まだです」
「風呂は?」
「まだです」
「僕のこと待ってた?」
「……ご飯は」
「風呂は違うんだね、了解」

 名前がご飯も風呂も済ませてないことは、美味しそうな香りと未だに彼女の顔を彩る化粧で分かっていた。あわよくば風呂も一緒にと、承諾してくれないかと一縷の希望をかけて流れるように訊いてみたが、残念ながらそう上手くいかないものである。
 もう少し夢現な時に言質取ってやろうと企みながら、今回は引き下がることにした。

「ご飯作ってくれたんだね。いい子。代わりに用意してくるから名前は待ってて」
「五条さん」
「んー?」
「おかえりなさい」

 そう言って名前は大きく腕を広げた。さっきも言ってもらったんだけどな、とか、君も五条さんなんだけどそろそろ慣れて欲しいな、とか、頭の片隅でよぎったものは全て吹き飛ばして、素直に腕の中に収まった。一人分増えた重みに、ソファの足がきしりと鳴る。
 ぎゅうっと抱きしめてくれた温かな体温に、もう少しこのままでいいかと目を閉じる。次に目覚めた時は、せっかく作ってくれたご飯をレンジでチンするのだ。申し訳ないけれど、今はこの体温に勝てない。