赤葦くんと幼馴染ちゃん
 遠くから聞こえる賑やかな声に、尾長渉は困惑していた。
 
 今日は尾長のクラス担任が出張のために不在で、HRで代理を担ってくれていた教師も仕事が溜まった学年主任であり、HRはほとんど省略された形となった。『ほかのクラスまだ授業してるから静かに帰れよ〜』という声を背に、尾長が教室から出た時には、廊下はシーンと静まっていた。
 隣のクラスのドアに備え付けられている小窓を覗けば、教壇に立つ教師が業務連絡をしており、生徒たちは帰りたそうにうずうずとしている。
 その光景を見、ほかのクラスよりも早く帰られることに僅かな優越感を抱きながら、尾長は、いつもよりも軽い足取りで部室へと急いだ。
 しかも、今週は、尾長の班は掃除当番の割り当てがない。委員会の集まりもないし、補習も特にない。ちっぽけであっても偶然が重なり幸せとなる。なんだか良いことが起きるような気がした。――この時までは。






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 尾長が向かっている梟谷男子バレー部の部室は、学年問わずユニフォームを貰っている者のみが使用できるきまりだ。決して室内が狭いわけではないが、私立のマンモス学校であり全国屈指の強豪運動部ということで部員層も厚く、そのため、全員が使用できる訳では無かった。
 一年の中では尾長と穴堀、そしてもう一人が使用しており、最初は「一年のくせに」と刺さるような視線を向けてくる同輩や先輩がいたのだが、尾長の人柄と実力を知った今となっては、冷酷な視線を向けられることは減った。
 なにより、尾長自身のメンタルが強くなったと言っても過言ではない。この強豪梟谷の名に恥じぬように、と今を大事に励んでいる。閑話休題。

 部室の鍵の管理は、監督とコーチ、主将の木兎、副主将の赤葦、マネージャーのどちらかと決まっている――否、決まっていたが、『木兎に鍵を預けるなんて流れの速い川の中に投げ込むようなもの』という小見の意見はレギュラー関係なく三年(+赤葦)の同意を得て、結局は雀田と白福それぞれが持つという形で収まった。
 そのため、尾長含めて、上記以外の部員が鍵を得るためには、職員室で借りてくるか、管理をしている者に借りてくるかのいずれかである。
 監督陣含めて副主将やマネージャーは今頃HRをやっているだろうし、職員室でマスターキーを借りるためには専用の用紙に記入したりと手続きが少々面倒くさい。
 最初はその内来るだろうと大人しく部室の前で待っていたのだが、閑静な空間は少しずつ尾長の心を刺激した。ただただ、意味もなくスマートフォンを開いてはSNSや通知が来ないメッセージアプリを眺めることしかできない。

(暇だ……)

 内心独りごちてみるが誰にも聞こえることはなく、ぼーっと空間を眺めて、時折ハッとしながら待受画面に表示された時計を見てを繰り返すが、大抵5分も経っておらず、都度絶望する。
 次第に、今日部活はあるのか、実は休みじゃないのか、という疑問や不安が頭を悩ませることになる。

 練習時間において、急遽、梟谷グループでの練習試合や体育館割り当てによるトレーニングルームでの筋トレメニュー、或いはミーティングのみという練習内容の変更は、前日に監督やコーチから知らせを受けるか、副主将の赤葦から回ってくるはずだ。
 もし今回も何らかの理由で変更されたのならば、誰かから連絡が来るはずだが、記憶を辿ってみたりメッセージアプリを開いてみても、該当するものはなかった。しかし、もし自分だけ忘れられていたらどうしようという不安は拭えない。
 遠くがうっすらと賑やかになっていくにも拘わらず、こちらは閑静な空間のままなことも相俟って、自分だけが仲間外れにされているような、この世界に俺1人しかいないような、そんな喪失感が襲ってきた。

 この際、例え練習メニューの変更があったとしても誰か共に犠牲になってくれればなんて黒い感情が蜷局を巻く。
 仮にほかの学校で練習試合になり集合場所が変わっていたとして、ボール籠やシューダスターシートは体育館内の備品庫にあるため部室は寄らないとしても、洗い終わったスクイズボトルやビブスは部室にあるため誰か立ち寄ってくれればと願う。レギュラー陣が来たのなら関の山、誰でもいいから来てくれ。そう願ったところで――

「あれ? 尾長?」

 ――その声はまるで鶴の一声のようにも思えた。
 落ち着いたトーンと、続いた「早いね」という関心のある物言いに、尾長は、当たりくじを引いた気分になった。

(勝った……)

 決して誰かと勝負をしていた訳では無いけれど、内心ガッツポーズを決め込んで、勝利宣言を独りごちた。そして、挨拶をするべく振り向いた時だった。尾長の表情が石のように固まった。
 再三言うが、誰かと勝負をしていたわけではない。しかし断言出来る。これは負けだ。



「後輩の尾長。レギュラーの中でも1、2を争う長身で技術や性格も申し分のない良い後輩だよ」
「あ、京治が前に癒し枠って言ってた後輩くん?」
「そう」

 尾長の想像通り、そこには尊敬する赤葦がいたのだが、右手では部室の鍵を持ち、左手では、可愛らしい少女と仲睦まじそうに手を繋いでいる。
 内容こそ自分を褒めてくれるものであり、あの赤葦に言われたのならば普段だったら照れてしまいそうだが、尾長の表情を赤くさせた理由は赤葦のお褒めの言葉よりも、目の前の光景のせいであった。
 そして浮かんでくるのは、あの日≠フ情景。
 あの日、もちろん尾長もあの体育館にいて、幼馴染と呼ばれた彼女との赤葦のやり取りを見ていた。あまりにも衝撃的な光景だったから忘れるわけが無い。隣にいる彼女は、あの時の少女で間違いはないはずだ。
 名前はたしか名前さん。

 三者しっかりと目が合っているにも拘わらず、2人は手を解くことをせず、あろうことか「こんにちは」と何事もないように挨拶されてはこちらの思考が異常なのではないかと思ってしまう。
 混乱しながらもきちんと挨拶を返すところは、さすがは礼儀作法に厳しい運動部の1年であるが。

「じゃあ練習終わって家に着いたら電話する」
「うん、待ってる。頑張ってね」
「ありがとう、行ってきます」
「行ってらっしゃい」

 まるで玄関で出勤を見送る新婚夫婦のようなやり取りである。
 極めつけに、赤葦は名前の頬に唇を落とした。陶器のように白い肌に、ピンク色のチークをさりげなく乗せた愛らしい少女は、嬉しそうに顔を綻ばせる。
 一方、見つめることしか出来なかった尾長は、くらくらと脳内が揺れる感覚に陥った。灼熱の太陽の元に照らされて熱中症になった気分だ。

こんなの、幼馴染って呼ばない。絶対に。




 

幼馴染ちゃんと尾長くん。

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