赤葦くんと幼馴染ちゃん





「京治、くん……いますか」

 華が咲いたような声だった。

 噎せる程暑い体育館にて、タオルとスクイズボトルを手に談笑をしていた部員たちは、突如聴こえてきた声に口を噤んだ。それが怒鳴り声でもマイクを使ったわけでもないのに、針の穴に通した糸のように会話の合間を抜けたのは、その声が平素の部活ではあまり聴いたことがないトーンと、名詞だったからである。マネージャー2人の声でもなければ、業務連絡を伝えに来る教師やクラスメイトの声でもなく、焦げてしまうほどの視線を向ける熱心なファンのように黄色い声でもなかった。

 たどたどしく呼びかけた声の主を一目拝もうと部員たちの首が動いたことで、一斉に向けられた視線を一身に受けた声の主は、重たい扉の前で困惑と羞恥を孕ませて柳眉を垂らしている。そして、どこか気まずそうにぺこりと小さく会釈をした。
 体育館内に浸潤した困惑と静寂に休止符を打ったのは、主将木兎光太郎の「京治って誰だ?」という声である。

「は? 京治って赤葦の名前だろ」

 すかさず木葉秋紀が言った。この主将、大事な我らがセッターの下の名前を知らなかったわけである。
 一方、木兎を窘める木葉の小声を傍目に、部員たちは操られたようにステージ側へと視線を向けた。
 数多の視線の先、バインダーを抱えて、休憩後のメニューを見返していた赤葦が、呼んだ件の彼女を見据え瞠目している。いつもの抑揚のない顔の面影はどこかへと吹き飛んでおり、「どうして……」と、ぼそりと紡ぐと、スクイズボトルの蓋をきゅっと締め、バインダーと共にステージに置き、ランニング程度のスピードで彼女へと駆け寄った。
 途中、木兎たちへと向き合い「少し離れます」と律儀に頭を下げていくところはさすができる男の赤葦である。
 今は比較的自由な休憩中だとは言え、あの赤葦が部活中に女子生徒に呼ばれて素直に応じることに、一部の部員たちを除いた数人が驚いていた。それはレギュラーや主将の木兎も例外ではなく、「お、おう。ごゆっくり……?」と曖昧で尻窄みな返事しかできなかった。
 赤葦を呼んだ少女といえば、駆け寄ってきた赤葦に嬉しそうに顔を綻ばせている。

「告白かぁ?」
「いやいや。あいつは部活中に応じたりしないだろ」
「でもほら、可愛い子だし」

 ひらひらと、百合の花のように白い掌を振る彼女を見、小見と木葉の間に邪推が生まれてしまうのも無理はなかった。高校生ともなれば、惚れた腫れたから始まり、告白しました付き合いましたといった桃色の話は、いつだって飛び交っている。
 とくに赤葦は、今年度の梟谷バレー部の中で女子生徒からの人気を木兎と二分割すると言われているほど(木葉調べ)実はモテる。
 更に言えば、自分たちは生粋な(良い意味での)バレー馬鹿だと自負しているが、色恋沙汰に興味がないわけではない。むしろ好きな方だ。どうしたって可愛い後輩の告白シーンは気になってしまう。
 レギュラーを始めとした部員たちが、事の行き先を静かに見守っていた。

 束の間。揃ってぎょっと顔を強張らせた。
 赤葦が扉の前に到着した時、満面の笑みを浮かべた少女は、赤葦の両手を一回りも二回りも小さな手で包み込んだのだ。赤葦もそれが当たり前であるかのように彼女の柔らかそうな掌に指を絡ませた。その自然な動きたるや、告白シーンというよりも熟年夫婦さながらである。更に、赤葦の切れ長の双眸が、酷く優しく彼女を見詰めているのがこの距離でも分かった。

「え、もしかして彼女!?」
「はぁ!? 俺聞いてねぇよ! んぐ、」

 立ち上がり咆哮する木兎の口を咄嗟に塞いだ木葉だが、木葉だって、現状に驚愕していた。木兎が言うように、未だかつて赤葦から桃色の話題なんて聞いたことがなかったのだ。言わなかっただけです。と云われてしまえばそれまでだが、それでも彼女と思わしき相手がいながら惚気のひとつも出てこなかったなんて同じ男子高校生として信じ難い。
 しかし、先程よりも目を凝らして2人を見据える部員たちの中で、2年生陣は苦笑いを浮かべていた。まるで何かを知るように。



 一方、少女の元へと駆けつけた赤葦は、喜色満面と申し訳なさのどちらもを兼ね備えている少女を見、小さく笑った。

「名前」
「京治、ごめんね」
「今は休憩中だし大丈夫」

 申し訳なさそうに眉を垂らしている彼女の頭を撫でて、本当に心配しなくていいよと、声に想いを籠めれば、目の前の可憐な少女は目尻を皺ばめて嬉しそうに笑うのだからこちらまで温かくなってしまう。
 それはそうと、思い返してみれば、彼女が部活前や後ではなくて最中に訪れたのは初めてだった。しかもわざわざ赤葦を呼ぶなんて。「なにかあった?」幼稚園児や小学生に問いかけるような優しい声で訊いた赤葦に、彼女はぱちぱちと睫毛を蝶のように羽ばたかせて、そしてどこか恥ずかしそうに、赤葦の手の甲を指で撫でた。

「あった……。今日京治の家に行く予定だったでしょ?」
「そうだね」
「鍵忘れちゃって……。京治ママも京治パパも今日遅いでしょ? だから鍵貸してほしいなぁって……」
「あぁ、なるほど。いいよ。でも鍵あっちにあるからちょっと待ってて」
「ありがとう! 京治大好き!」
「うん、俺も」

 繋ぎあっていた掌を解くと、そのまま勢いよく赤葦へと抱きついた少女と、慣れた手つきで背中に腕を回す赤葦である。
 その光景を見守っていた部員たちは、口をあんぐりと開けて唖然とするしかなかった。
 告白現場かと思えば恋人同士の逢瀬。しかも赤葦の両親がいないことを知っていながらその日の夜を共に過ごそうという約束までしている。しまいには抱擁と愛の言葉が交わっているが、本人たちは気にすることも羞恥に顔を染めることも無く、明々白々の如くそれが当たり前かのように振舞っている。
 おかげでこちらが赤面をしてしまいそうな光景の中、赤葦の同輩である2年生陣は、苦々しく笑うことしか出来なかった。名前と呼ばれた少女と、同輩の赤葦によって生み出されたこの光景に。

 その温度差に真っ先に気づいたのはマネージャーだった。「ねぇ、あの子は赤葦の彼女ちゃん?」と、電光得点板の後ろにいた雀田かおりが訊く。訊かれた部員は、困ったように人差し指で頬を掻きながら「あー、あの2人は……」と続けたところで、彼の声は、赤葦がステージへと踵を返す音と、木兎の咆哮でかき消されてしまった。

「赤葦あの子彼女!?」

 赤葦のTシャツを掴みながら捲し立てる木兎の姿は、浮気を問い詰める彼女のようである。先刻の、可憐な少女とのやり取りの後に見ると中々異質である。

「違います」

 しかし、赤葦は淡々と否定した。木兎がか「はあ?」と顔を歪ませて、さらに大きく口を開く。

「違うってなんだよ! あれで違うって俺の目は誤魔化せないからな!」
「違いますって」

 息巻く木兎と冷静な赤葦のやり取りが更に浮気の描写を強くするが、やはり赤葦は否定している。そこには、思春期特有の照れや羞恥すらもなく、だからこそ、いつもの真顔が浮いて見えた。如何せん、嘘をついているようには見えなかった。

「じゃあどういう関係なんだよ……」

 困惑した小見の問に、赤葦は双眸を伏せると、思案することも迷うことも無く下のように言った。

「幼馴染です」
「え?」

 きっぱり言いのけた赤葦の顔に嘘は見えないが、場は余計に混乱を呼んだ。別に、赤葦に幼馴染くらいいてもおかしくはないし、首を傾げた部員たちにだって幼馴染はいる。
 ただ、幼馴染にしては距離が近すぎる。少なくとも『大好き』という愛の言葉や抱擁はないのが一般的だ。

「幼馴染ってよりも恋人同士に見えたけど」
「今は幼馴染期間です」
「期間……?」
「高校卒業まで幼馴染期間を満喫して、大学卒業まで恋人期間を満喫して……そうですね、入社2年目くらいまでは婚約者期間を満喫したいですね」

 淡々と不思議なプランを紡ぐ赤葦に、部員たちの悲鳴染みた驚愕が地面を揺らした。事情を知る2年生のみが慣れたように溜息を漏らしている。そんなどよめきを一身に受けながらも、赤葦は特にそれ以上口を開くことなく会釈をして、鍵を取りに行くためにステージへと向かうのだ。



幼馴染ちゃんと初めまして。

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