深淵 | ナノ


天上、その後。



31.それは束の間の駆け落ちのような、



その一言は見事に僕の痛い所を突き、抉った。まあ言った本人は知る由もないのだろうけど。
つまりは僕にとって、これ以上ない程に効果的なモノだった訳で。


『もし自分が同じ事されたらヤじゃね?』


何の気なしに言ったのはわかっていた。正直言って彼女は昔からわかりやすかったから。ぐったりしながら呟かれただけのそれに、何か特別な意図が込められていたとは思わない。

だからかもしれない。
あの本当の傷ついた、間接的とはいえ自分が傷つけたに違いない彼女のともすれば骸と勘違いしそうだった姿。あの真っ赤を通り越した赤黒く染め上げられたナマエをまざまざと思い出させられた自分は、気づけば首を縦に振っていたという至って単純な終止符で、この話は幕を閉じたのである。

その言葉は痛い程、身に沁みていたから。

もしアリエッタが僕に何か隠し事をしていたとしてそれがアリエッタの命をも奪いかねない程のモノだったら。
しかもそのまま僕の与り知らないところで死ぬなんて事があろうものなら、僕はきっと、耐えられないから。

……まあ、またこうやって何かしらが起こってから漸く答えに行き着いた自分は、どうしようもなく愚かなんだろうけど。




魔物の足とはいえ流石にまだ抜けていないパダミヤ大陸遙か上空。密着してはいるものの羽音と共に速度に比例した分だけ耳許で唸る風声があるため、負けないようお互い少し声を張り上げて話す。


「ナマエママがあんなに暗い顔してたの、アリエッタ達導師守護役はイオン様と会っちゃ駄目って命令が来た日以来…」

「ああ、あれね……皆、特に君やナマエには知られたくなかったんだ。あの時の僕は、長くなかったから。……ごめんね」

「ううん…イオン様、アリエッタに全部お話ししてくれたからもういいの。…でも、だからこそ絶対、絶対元気になって、いつかダアトに、アリエッタとナマエママの所に戻ってきてほしい…です」

「…ありがと」


それだけの行為だけでも疲れていた以前の僕からしてみれば嘘みたいだった。担当医ならぬ担当治癒術師であるナマエ曰く完治はまだ遠いらしいけど、この調子なら急死はまずないだろうと思える。本当にナマエの治癒術には恐れ入る。

その僕の状態からして、ナマエはこれから向かう逃げ場である僻地へとまた絶対会いに来ると言う。むしろ休日に限るが通いつめると。
…それでも、寂しくないといえば嘘になる。生まれは連れてこられた時分のせいで欠片も覚えてないマルクトのどこぞらしい僕にとっての故郷はダアトだけ、ナマエの許、傍だったから。

ナマエの目は終始潤んでいたし、アリエッタは今でこそ僕を送り届けるという彼女の中で最優先にして重要任務としてくれているだろうそれを控えているから張り切っていて泣いてこそいないものの、つい数時間前までは泣き崩れて呻きっぱなしだった。今参っていないのが不思議なくらいだ。ナマエに鍛えられたからだろうか。

そしてそんな彼女達に囲まれた僕も、泣く事は弱者の象徴みたいで屈辱だくらいにしか思っていなかった僕でさえも。そうやって嘆く事によって別に弱くなる訳でもないだろう娘達を見ていたからか、最後の最後で顔が歪んだのがわかった。ナマエが驚いた顔をしていたから余計に。
死病ではなく助かりかけている命を抱えての逃亡だけでしかなくて永久の別れではなくなったのだから、何とかそれで済んだのだけど。

いつまでも僕達に向かって手を振っていたナマエ。アリエッタのお友達であるフレスベルグの背にアリエッタと二人跨がり、僕達もまた、その姿が見えなくなるまでずっと見つめていた。
本当は僕が前にいた方が性別的にサマになるんだろうけど僕は魔物を操れないからアリエッタが先頭なのは仕方がない。だからそれは置いておくとして、始まったのはその背後からこれから向かう目的地までの道順を僕が指示しそれをアリエッタがフレスベルグへと通訳してなぞるように飛んで逃げるという、片道だけで折り返し地点で離れ離れなんていう駆け落ち崩れの逃避行。

ここに来るまであまり時間はなかった。だからアリエッタに僕の現実を明かすのに精一杯で、ナマエには穴だらけの事の真相しか伝えきれていないのが現状だった。
あのぶっ飛んだ計画の仔細、ヴァンやモース、六神将のその思考の危険さを。
まあモースはどちらかというとヴァン側、つまり六神将を含めソイツらに好いように利用されてる感があるだけで、しかも本人には権力のみで武力に直結する何かがある訳ではないけれど。
それに六神将も今のままでもないだろうから、ダアトを去る僕に更迭された新しいメンバーの人となりを把握する術は既にない。人伝に聞くでもしない限り。
ヴァンはいつだったかアッシュをそこに加えたいと零していたからこれは時間の問題だろう。何だかんだでアイツは優秀だから。まあアイツはナマエに危害を加えるようなマネはしないのはわかってるから良いとして、しかしその他にこれから入れ替わるヤツがいたとしたらソイツは恐らく完全にヴァン側の思考の持ち主だろうから、やはり警戒するに越した事はないだろう。

でも、足りない忠告は手紙やナマエが往診しに来た時に補完するにしても……。


「結局、なあなあになっちゃったまま、か…」

「イオン様?何か言った…ですか?」

「…いや、何でもないよ」


ナマエへの贖罪も、ただ詫びを入れただけに留まり、何を返す事もなくここまで来てしまった。

ただでさえ自分の身体の事なのに自分でどうする事も出来ずおんぶに抱っこという醜名は苦痛だったというのに。借りの一つも返せないなんて自分に腹が立つだけだ。
ナマエは部下だから使うのに抵抗はないと割り切れればこんなに楽な事はないだろうに、残念ながら彼女は僕の中で部下以前だった。家族という名の。
昔からそうだった。意識の定まらない内から追い回したりしていればそうなろうというもの。

…こうなったらもし彼女が悩んでいたり何か大変な目に遭う事でもあるのならば真っ先に力にでもなるべきか?
今の自分に出来る事なんてたかが知れてはいるが。

それでもいつかナマエが持ってくるであろう以前の僕に戻れれば、いくらでもやれる事などあるだろう。
――この顔は使えるからね。

ナマエの平生からして、次に会う日はあまり近いものではないだろう。
その時までに、ナマエなしではあまり効果は望めないだろうけれども少しでも自己の回復と一応逃亡中の身でもあるからして自衛とに努めつつ、何か良い案でも浮かべば良いのにと思った。


◆◆◆


難しい話だった。悲しい話だった。それと同時に、教えられた総てに驚いた。

だけど、久しぶりに会えたイオン様は、何だか今まで見た事のないくらい怖いお顔で厳しく言ってきたから、アリエッタ、頑張ってわかろうとした。わかんないって大声出したり泣いちゃう前に、わからなきゃ駄目だって思った。
たった数時間の間だったけど、アリエッタ、今までで一番頭を使わなきゃいけなかった気がする。…でも、どうしてもわからなかったらアリエッタにはナマエママっていう最強の先生がついてるから後で訊けば良いかなって……あ、勿論、だからってイオン様の忠告を聞き流してた訳じゃないよ、だから大丈夫。ちゃんとわかった。

『レプリカ』…っていう模造品の、事。


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