南柯の夢1
私を切り刻んだあの人は、血のついたメスを目の前で拭き取りながらにっこり笑った。 ああ、いいなあ、あの笑顔。 誰も捉えてなくて、何にも興味がなくて。
皆んなは臨也さんに気を付けろと言うけれど、私はこの人こそ落ちたらいけない相手だと思う。 誰も忠告してくれなかったから、うっかり嵌ってしまった。 なまじ良い人だから、簡単に手を差し伸べるし、その手に刃を突き立てることも厭わない。
彼の中に、世界は一つしかなかった。 それはいつだって、変わらない。
「新羅さんは、結婚するの?」
尋ねると、一つ瞬きのあと、またいつものように微笑んだ。
「彼女に戸籍は無いからね」 「なんとか出来るんじゃないの?」 「だとしても、そこに拘る理由は無いかなあ。僕は今の生活が続けばいいし」 「子供も?」 「出来ないだろうね。でも要らない。彼女さえ居れば僕はそれで」
ずっと一辺倒に、ただひたすら彼女への愛をのたまう。 聞かずとも分かることを、私はたびたび彼に問いかけた。 そうやって事実を外から脳に入れ込まないと、またうっかり踏み入れてしまうからだ。 この牽制を取り入れたのは最近で、既に家に入り浸るまでには浸かってしまっていた。 ここに来てしまってるようじゃ、いけないのにな。
「新羅さんは、本当にいつも、彼女が好きだね」 「うん」
一切の恥じらいもなく、1+1が2であることのように、当たり前に頷く。 それから少しだけ私を鋭く見た。
「どうしたの?架月ちゃんって時折そうやって尋ねてくるけど。そりゃ僕としてはセルティの惚気を話せるチャンスだし嬉しいんだけどさ。けどあんまりセルティの話をすると君も好きになっちゃうじゃない。ああ、美しいって罪深いよね!」
茶化して締めくくるも、眼光の強さは変わらない。 自分達にとって敵であるかそうでないか、見定めているんだろう。いくら付き合いが長くても、その点において気は抜けないのだ、きっと。
「特に意味はないよ。すごいなあって、それだけ」 「すごいかな?」 「すごいよ。羨ましい」
そこまで愛されるセルティさんも、そこまでの愛を向けることが出来る新羅さんも。 普通にいい人であれど、どこか人間味のない新羅さんは、セルティさんがいるからそうなったのか、そうだったからセルティさんといるのか。
「……いけない。そろそろ行かなきゃ」
腕時計を確認しながら残りのお茶を飲み干し、ご馳走様と流しに片付ける。 洗おうとすると新羅さんは首を振り、
「もう行くの?セルティとも会えてないのに」 「バイトの時間だから」 「今日はどっちの?」
お礼を言って鞄と上着を持ち、足早に玄関へ向かう。 靴を履いてから向き直ると、新羅さんは白衣に片手を突っ込み、反対の手でまたねと言うように振っていた。
「不健全なほう」
その言葉にやっぱりかと苦い表情を浮かべながら。
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