※修学旅行ネタ ※へいわじませんせいとおりはらくん 修学旅行初日の真夜中、臨也はひそりと部屋からでた。同室の人間に配慮する必要はない。同室になるはずだった人間は直前に行けなくなった為、部屋には臨也一人だった。 臨也は自分の部屋から出て、とある部屋へ向かう。265号室。突き当たり、ホテルの部屋並びや直前にキャンセルした生徒がいたなどの事情から、皆が泊まる部屋から少し離れたその部屋に泊まるのは、どのクラスも担当していない引率の教師である、平和島静雄だ。 臨也が真夜中に誰かに見つかる危険を犯してまで部屋を出たのは、一通のメールが原因だった。 一人きりの部屋で入浴を済ませ、退屈を持て余して携帯をいじっていた時だった。 「……先生、いそがしいかな」 部屋に行くことはできないだろうが、メールくらいなら大丈夫だろうか。それとも、忙しいだろうし、メールも控えるべきだろうか。そんな風に悶々と悩んでいたときだった。 ピピピ、と携帯が鳴った。普通の電子音、しかしそのリズムは恋人に設定したそれだ。恋人であり、臨也が通う学校の教師でもある、平和島静雄専用の。 思わず携帯を取り落としそうになりながら、届いたメールを開く。簡潔な一文が目に入った。 『起きてるか?』 何かあったのだろうか。それとも、もしかして。少しだけ期待しながら、『起きてます』と一言返信した。返事はすぐに返ってきて、今度は少しだけ長い文章だった。 『明日のコース、あんまり乗り気じゃないって言ってたよな。 気が変わってないなら、後で俺の部屋に来い。 明日行きたいなら、あるいは俺に会いたくないなら来なくてもいい』 行く。行くに決まってる。 明日は海に行く予定だった。あまり気乗りしない、と少し前に一言こぼしただけの言葉を、覚えていてくれたのだろうか。 誘いをうれしく感じながらも、臨也は少しだけもどかしさを感じた。 静雄は、いつでもそうだった。いつも、臨也に選択権を与えてくれる。どちらでもいい、おまえが選べとばかりに、いつも選択肢を突きつけてくる。そのどちらかは必ず臨也が望む選択だが、もう片方は静雄から離れることを感じさせるような選択だった。 ―――先生はいつもそう。いつだって俺に選択権をくれて、自分はどちらでもいいような態度をとる。 臨也はそれがもどかしかった。静雄は臨也に執着していない。それを突きつけられるようで、ひどくもどかしくて、それから悲しい。 静雄は教師だ。教師である静雄が、生徒で、その上女ではない自分を恋人にしてくれた。静雄はあれで真面目な人間であるので、遊びで生徒に手を出せる訳がない。真面目な人間でなくても、少しでも理性と常識があれば、生徒に手を出すなんてバレればクビになるようなリスクの高い遊びはしないはずだ。だからこの関係が遊びではないことも、静雄がちゃんと自分を愛してくれていることもわかっている。わかっているけれど、もしかしたらと思ってしまう。静雄の『好き』には、自分が教え子である故の愛情も含まれているのではないかと。今はおとなしい臨也も、昔は問題児だった。手の掛かる生徒だった自覚もある。校内で唯一臨也を捕まえられ、唯一臨也がまともに話を聞く教師だった静雄は、生徒指導担当ではないにも関わらず、臨也が何かをやらかすと毎回駆り出されていた。だからなのだろうかと思う。手の掛かる生徒ほど、愛着も愛情もわくだろう。だから、静雄は臨也を好きだと言うのではないかと思う。 それでも、臨也は静雄の誘いを断れない。愛されていないなら、こんな風にぐるぐる考え込むことになるのなら、断ってしまえばいいといつも思う。そうしたらきっとはっきりする。静雄が臨也を愛してくれているなら、きっと引き留めてくれる。そうでないなら、引き留めてはくれず、自然と教師と生徒という関係に戻るのだろう。 いつもいつも考えるのにそれを実行できないのは、怖いからだ。静雄が引き留めてくれなかったら。何も変わらないような顔をして教師と生徒に戻ってしまったら。抱き留めてくれる腕の暖かさだとか、生徒ではなくて恋人に向ける甘ったるい視線だとか、そういったものを知ってしまった今、もう普通の生徒として見られることには耐えられないだろう。それ以上に、きっと、引き留めてくれなかったという事実そのものに打ちのめされてしまう。静雄にとって、自分は執着するほどの人間でもなかったことに打ちのめされて、傷ついて、きっと立ち直れない。 だから臨也は、いつも迷う自分に見ない振りをして、静雄にイエスの返事を返す。何度選択を委ねられても、臨也の答えは変わらないだろう。静雄を好きだと思う感情を、不安が上回らない限りは。 『いつなら行ってもいいですか?』 そうメールを返した臨也の携帯が、十分も経たないうちに再び震える。 『メールする。眠かったら寝ててもいい』 絶対に起きてます。そう一度打ち込んだ文章を消して、『わかりました』と簡潔な一文を入れて送った。 そんなやりとりがあった後、そわそわとベッドの上で待っていた臨也の携帯に静雄からメールが入った。『来れたら来い』と一言、それだけのメールに、ぎゅうと携帯を握りしめて唇を噛みしめた。たったこれだけのメールが、たった一言が、うれしくて仕方ない。不安なことはたくさんある。けれどこのメールは、いつかはどうであれ、少なくとも今は静雄にとって臨也がただの生徒ではないことを教えてくれている。『特別』であることを教えてくれている。 どくどくと激しく脈打つ心臓に、胸のあたりをぎゅうとおさえる。 好きだなあ、と思う。どうしようもなく、好きだと思う。教師とか生徒とか、そんなの考えたって仕方ないと思えるくらい、好きだ。 パジャマでは少し肌寒かった為、バスタオルを毛布代わりに肩にかけてから、音が響かないように扉を開けて、静かな廊下を歩く。静雄が宿泊している部屋まで、同じフロアでさほど距離はないとはいえ、真夜中の廊下、誰かに見つかりはしないかと緊張しながら歩いている臨也にとっては、とても遠く思えた。 やっとのことでたどり着いた静雄の部屋の前で、チャイムを鳴らそうと指先を持ち上げる。しかしチャイムを鳴らすと誰かが起きてしまうかもしれないと気づき、どうしようと考えたときだった。 かちゃ、と小さな音がして、静かに扉が開く。まだ風呂には入っていないのか、私服ではなくYシャツ姿の静雄が臨也を出迎えた。ネクタイを緩め、いくつかボタンを外している。 無言でドアの前から退いた静雄に、臨也も何も言わず静雄の部屋に足を踏み入れる。ぱたん、と小さく音を立てて閉められた部屋に、どくんと心臓が高鳴るのを感じた。 静雄の部屋は、臨也が泊まる部屋とは鏡合わせのような作りになっていた。分かりやすい違いと言えば、臨也の部屋にはベッドが二つあるのに対し、静雄の部屋には一つしかベッドがないことだろうか。 カーテンが閉められ、室内灯もつけられていない。あかりと言えばベッド側にある調光式のライトだけで、部屋全体が薄暗く見える程度だった。静雄の部屋に、真夜中に静雄と二人きりという事実だけでも緊張するというのに、この部屋の薄暗さがその緊張感を倍増させていた。 どこに居ればいいのか分からず、数歩進んだ場所で立ちすくんでいると、静雄がベッドに腰掛けて臨也に手招きをした。それに従って静雄の隣、拳二つ分くらいの距離をあけて、おそるおそる腰掛ける。そんな臨也を見て、静雄が小さく笑った。ここに来て初めて聞いた静雄の声に、臨也は思わずびくりと肩を跳ねさせた。 「なんでそう微妙に離れて座るんだよ。もっとこっち来い」 「え、っと……、……はい」 ぎこちなく頷いて、そろりと距離を詰める。それでも、なにもしなくても触れ合ってしまうような距離に自分から近づくのは躊躇われて、結局拳一つ分の距離はあけたままにした。その距離を埋めるように、静雄が臨也の腕をつかんで引き寄せる。 その勢いで、臨也は静雄の胸に顔を埋める体勢になる。思わずぎゅうと目を閉じて固まると、その背に腕が回った。 「悪いな。夜中に」 「……いえ……」 苦しくはないが力強く抱きしめられ、耳元でそう囁かれて、背筋がぞくりとした。声が震えて、思うように話せない。こうして触れ合ったことは初めてではないというのに、臨也はいつまでも慣れることが出来ない。抱き締められる以上のことだってしているのに、静雄に触れられると平常心を保てなくなる。 「臨也」 二人きりのとき以外、静雄は臨也のことを折原と呼ぶ。ほかの生徒と同じように、名字で。静雄が臨也を名前で呼ぶのは、こうして触れ合うことが出来る状況だけだ。だから、静雄に名前で呼ばれると、臨也はどうしても触れ合ったときのことを思い出してしまう。 「……せん、せい」 名前を呼ぶ声に小さく応えて、静雄が着ているYシャツの裾を摘むようにして掴んだ。背に手を回すことを躊躇っている内に、こうするのが癖になってしまった。 「臨也、顔上げろ」 静雄に言われるがままに顔を上げると、静雄が臨也を見下ろしていた。それだけで、かあっと顔が火照るのを感じる。瞬く間に真っ赤になった臨也を見て、静雄が柔らかく笑った。背中に回っていた腕の片方が、そのまま背中をあがって頬に触れる。臨也の体温が高いせいか、静雄の手のひらが冷たく感じた。 静雄の顔が近づいてきて、唇が頬に軽く触れる。頬から眦、額、鼻の横にもキスされて、それから最後に唇に触れた。柔らかく触れる唇に、睫が震える。 「っ、せ、んせい?」 唐突に、唇と唇を触れ合わせたまま、静雄が臨也の膝裏に腕を入れて臨也の体を持ち上げた。そして静雄の膝の上に横を向いたまま座るように乗せられる。背中に回った手で体を支えられ、ついでに肩を引き寄せられて、臨也の右半身が静雄の肩や胸にぴったりと密着した。 「せんせい」 どくどくと、まるで耳元に心臓があるように感じるほど大きく響く。熱が頭にのぼって、脳を溶かしてしまうような気がする。思考回路がどろどろになって、ただ呼ぶことしかできなくなる。静雄から伝わる熱が、臨也のすべてをとかしてしまうような、そんな感覚。 静雄と触れ合うとき、臨也はいつもこの感覚に襲われる。なにも考えられなくて、ただ熱くて、―――けれど、幸せで。 「いざや」 名前を呼ばれるという、たったそれだけのことが、こんなにも心を震わせる。それも、相手が静雄だからだ。静雄のことが好きで好きでたまらない。どうしようもないくらい、ただただ好きだ。 「せんせい、……すき……」 静雄を見上げて、感情をぎゅうぎゅうに詰め込んだような、けれど小さな声で臨也が言う。その表情も声も、臨也の感情を如実に表していて、静雄はもう一度臨也に口づけた。 「ああ。俺もだよ、臨也」 その言葉を聞いて、臨也はふにゃりととろけきった表情で笑った。 → |