す、す、と筆を滑らす音だけが静寂を保った部屋に響いている。文を書くのに筆を使う者が、この近代社会に未だ存在しているとは。いや、もう文にその思いを込める者もいないのかもしれない。様々な機具が発明され続ける世の中で、文は必要ないものとなってしまった。

けれど黙々と木机に向かう男は、他者と同じ考えを元より持ち合わせていない。『人為らざる者』がわざわざ人と同じ行動を起こす必要性はないはずだと。生活様式も、食も文化も、全てが違っていて当たり前なのだと。

庵殿、で始まる文面に視線を落とし、男は昨日のことばかり考えていた。筆は進むはずもない。

「琥珀様、少々宜しいでしょうか?」
「……構わん、入れ」

硯に筆を置き、声のした方向……襖へと身体を向ける。視線の先では、比較的小柄な青年が正座している。そのまま静かに襖を閉め、こちらに一礼した。

青年もまた、琥珀と呼ばれた鬼と同じ対角(ついかく)であった。違うのは青年の角が銀であること。そしてもう一つ……とても穏やかな瞳をしていることだ。

「何用だ?」
「昨晩の件ですが……」
「気に病むことはないと申したはずだが?」
「それでは民も納得しません! ……長の口から説明をいただきたく存じます」

縋るような瞳を向ける情けない鬼を前に、吸い込んだ息を深く低く吐いた。呆れが大部分を占めるが、その中に怒りも少しだけ含まれている。微量の怒りを感じ取ったのか、青年鬼は肩を震わす。それには、さすがに呆れしか生まれなかった。

「お前という奴は……何度申せば分かる? その軟弱な姿勢を正せと何度も……」
「い、今は私のことなどどうだって良いのです! 問題視されているのは昨晩のいざこざで……!」

どんなに問いただされようと答えるつもりはなかった。答えたところで彼の納得のいく解答をしてやれる自信がないからだ。必ず、里を混乱させることになる。あの女殺し屋との一件は、胸の内に秘めておくと決めていた。

「人間を襲っていた者がいた。正気を失っていたゆえ斬った、ただそれだけのことだ」

斬った、などと同族殺しをあっさり認めてしまう琥珀。彼の性格はよく分かっているつもりだ。幼い頃より次期里長の側近として仕えてきたのだから。迷いなき剣術、その聡明さや決断力も青年にとっては尊敬に値するもので。

卑劣で無慈悲で、冷酷で。斬られた者からすればそんな印象しか残らないのだろうが、青年を始めとする風来京(ふうらいきょう)の鬼達には彼の存在は『善』だった。彼なしでは里が里として成り立たない。琥珀は、皆に尊敬されている。彼もまた、里と民を愛している。だからこそ、同族といえど粛清しなければならない時があると、青年も重々承知していた。

「私は非道な長だな。同胞を討っておいて何も感じぬのだ」

感じていないはずがない。何より苦しんでいるのは琥珀だ。

……彼は耐えている。同族を……自分を好いてくれた者を手にかけるような真似、誰が好んで行うものか。だが、その心情を思うと声を荒げずにはいられない。

「琥珀様! 貴方はまた一人で苦しむおつもりですか!? 私達は……私はそんなに信用なりませんか!」
「誠衛(まこひら)」
「辛いのなら辛いと、そう仰ればいい! 何故全てを抱え込もうとなさるのですか!」
「……誠衛」

一見して冷静に、かつ非情に思えるが、内心では様々な想いが巡っていることだろう。こうして側近の言葉で瞳に苦渋の色を浮かべていることが何よりの証拠。

現在、人類とは冷戦関係にある。とはいえ、それはどちらかが踏み込めば容易に壊れる脆いものにすぎない。すでに、人間は殺鬼(さっき)を使ってこちらに揺さ振りをかけてきている。こんな状況の中で、内側から瓦解しては元も子もない。今人間と揉めては……何とか保ってこれた均衡を潰してしまいかねない。里と民の平穏を保つためにはどうしても、衝突は避けなければならなかった。

長としての使命、一鬼として民を想う心。その二つが琥珀の中を巡っているが、いつも優先させるのは使命の方だ。させる、ではない、させなければならない、か。長である以上、里の脅威は掃わねばならない。たとえそれが里鬼であっても、血を分けた兄弟であったとしても。

「お前の言う通り、誰も罰したくはないと思っている。だがどんなに願おうともそれは叶わぬ。庵の時も、……そうであったな」
「っ庵様のことは……! …………仕方の、ないことでした……それに、あの方は……」
「まだ生きている、か?」
「そ、そうです! だから貴方は非道などではありません!」

その言葉は、琥珀をさらに追い詰めるものだった。珍しく眉根を下げた主を前に、しまったと口を噤む。

弟……庵という対角は同族殺しの罪に問われていた。当然琥珀は彼を裁くべく刀を向けた。だが、斬れなかった。長として非情になれず、民を欺き彼を逃がした。

「経緯はどうあれ、あれが同胞を手にかけたのは事実。長として相応の処罰を下す必要があった。だが私は……」
「申し訳ありません、失言でした」

深々と頭を下げる誠衛を横目に、文を撫でる。再び筆を持ち、途切れていた文字を埋めていく。敬具で締めくくり、丁寧に折り畳んだ文を誠衛へ手渡した。

「いつも通り内密に頼む」
「はい、承知しております」

入ってきた時と同様、一礼し部屋を後にした。自分程度の言葉で主の憂いが晴れることは決してない。その事実に表情を曇らせながら、すっかり冷えてしまった廊下を行く。

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