Il faut de tout pour faire un monde.

「あれ」
 窓の外は深夜かと勘違いしてしまいそうな程の暗闇だった。窓の外の景色は名前の視覚に「今は夜だ」と訴えかけているのだが、枕元のデジタル時計の数字は7時1分。そもそも名前が起きたのも午前7時に設定されていた時計のアラームなのだから、おかしいのは外の景色ということになる。
「夜というか真っ暗って感じ?」
 よくよく考えてみれば、街灯の光が付いておらず向かいの家のシルエットすら捉えられない程の暗闇など本来あり得ないものではないか。
「まあ、いっか」
 そう言いドアを開けてみれば、我が家の廊下が広がって……いなかった。そこにあるのは窓の外と同じ暗闇だった。一歩先すら見えない、黒一色の景色。一瞬、足を踏み出すのを躊躇ってしまう程だった。
 携帯のライトで照らして見ても、明るくなったようには見えない。顔を洗いたいのに、これでは洗面所にたどり着けそうにないではないか。嗚呼、怖い。ここから動きたくない。

「おーい。お母さん、お父さん、タマ」
  両親と飼い猫を呼ぶその声は反響し、エコーとなって自分の耳に帰ってきた。
「お風呂?」
 自分でも頓珍漢なことを言っているのは分かっている。ただ我が家の廊下がこんな真っ暗だという記憶も無いし風呂やトンネルのように声が響くような構造だった記憶も無い。
「タマ〜、こっちに来て」
 部屋に置いてあった鈴付きの猫じゃらしを振ってみた。安っぽい鈴の音が真っ暗な廊下(でいいのか分からない)に響く。
 再度両親やタマに呼び掛けてみてもカラカラという金属音以外物音はしない。猫じゃらしを振る行為が無意味に思えてきたところでとうとう立ち上がり、部屋と廊下の境目を一歩だけ越えてみる。
 床はひんやりとしていて金属のような素材らしい。ぺたぺたと足音を鳴らせば、スリッパの存在を思い出しベッドの横に置いてあったスリッパを履いた。
 いざ部屋を出てみれば先程まで抱いていた微かな恐怖心も薄れたのか洗面所を探しに名前は足を進める。距離感すら掴めない真っ暗な空間をひたすら歩いていると、次第に代わり映えしない景色や足音と布擦れの音以外しないこの空間の違和感から抜け出そうと歩くスピードが早まる。

「タマ、タマ!」
 名前を呼んでいればひょこっと現れるのではないかと思って愛猫の名前を繰り返す行為に意味はあるのかと考えたところで、自分は存外寂しがり屋だったのかもしれないと名前は思った。いつもなら目が覚めれば廊下や階下からタマの首輪に付けられた鈴の音や両親の声が聞こえて来るはずが、今日は起きてみれば自分の部屋だけ世界から隔絶されたような。
 若干疲れを感じてきたところで、名前は歩みを緩めた。自分が真っ直ぐ進んでいるのかも忘れ、後ろを振り向いても見慣れた自室のドアは無く本当に迷ってしまったのだろうか。360度周りを見渡しても真っ暗な空間が広がるばかりで名前が探し求めているものが見つかる様子は無い。その事実に落胆し俯いていると、聞き慣れた鈴の音が耳に入ってきた。
「タマ?」
 にゃあ、と驚く飼い主のことも気にせず気の抜けたいつも通りの鳴き声にほっと胸を撫で下ろす。腕を開いて名前を呼べば駆け寄って肩に登ってきた愛猫を抱き締める。
「よしよし」
「おや、タマは貴女の飼い猫だったのですね」
「日比野くん?」
 日比野くんと呼ばれた男は穏やかな笑みを浮かべ、いつの間にか背後に立っていた。少なくとも目視の範囲には人影はなかったような気がするのだが……気配すら感じることも無く背後に立っていたこの男に名前は何か感じなかった訳ではないが、日比野の顔を見た途端名前の肩から離れたタマの様子を見て、警戒を緩めてしまった。
「タマ、日比野くんになついてるね」
「それならば嬉しいです、猫は嫌いではありませんから」
「タマって撫でられるの好きだし、もしかしたら日比野くんはすごく猫を撫でるのが上手いのかも」
「そうなのでしょうか? あまり猫と触れ合った経験は無いもので」
 撫でられて気持ちよさげに喉を鳴らすタマが、自分に撫でられるより気持ちよさそうでなんだか悔しさを感じる。そんな名前の複雑な感情なんて知らない日比野は言葉を続けた。
「さて、そろそろここから出ましょうか。名前も飽きてきた頃でしょうし」
 ぱちり。瞬きをしたその瞬間に景色はただ暗闇が広がるだけの空間から遺跡のようなものに変わっていた。一本道のそれを目的地に向かうという明確な意思を持って進む目の前の男に呆気に取られていた名前には、振り向いて意味深な笑みを浮かべる男の真意を測ることは出来なかった。




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