夜明け前
※吸血鬼×ダンピール
帝人→ミカエル、正臣→マティアス、杏里→アンヌ
「ね、ねえ……やっぱりやめようよ」
か細い声に応えるように、墓石にたむろしたカラスの一匹が甲高い鳴き声を上げた。ミカエルはひっ、と声ならぬ声を上げ、目の前の背中にしがみつく。
短く切りそろえられた黒髪の下で細い眉をハの字に歪めた見るからに気の弱そうな少年とは対比的に、もう片方の少年は鮮やかな栗毛の髪をなびかせ、背後を振り返った。
「あのなぁ、言い出したのはお前だろ?」
「そ、そうだけど。いくらなんでも無茶だよ、教会はほかにもあるじゃないか」
おどおどと辺りを見渡す少年に向き直り、栗色の髪の少年――マティアスは「はぁ」とこれ見よがしにため息を吐く。
苔で覆われた墓石の上にとまった一羽のカラスが、二人の少年をせせら笑うように「ギャア」と鳴く。その声に、ミカエルはいよいよもって泣き出しそうな表情を浮かべ、地べたに蹲ってしまった。
生粋のお坊ちゃま育ちにはいささか刺激が強すぎるのかもしれない。マティアスはぶるぶると震える少年の前に屈み、諭すように語り掛ける。
「考えてもみろよ。町の神父どもが何かしてくれるか?どうせ聖水だの十字架だの渡されて終わりだぜ」
「それは、そうだけど……」
「ほら、分かってんなら立てって。日が暮れたら余計こえーだろ、こんなとこ」
古びた墓地のど真ん中。そんな場所、誰だって気味が悪いに決まっている。幼馴染を安心させようと平然を装ってはいるが、栗毛の少年の手にも微かに汗が滲んでいた。服の裾で軽く手のひらをぬぐい、へたり込んだ少年の目の前へと差し出してやる。
夜の闇が空を覆う前に墓地を抜けなくてはならない。気の強そうな面立ちの少年の白い掌も、うっすらと目じりに涙を溜めた黒髪の少年の頬も、森の木々の間へと沈みかけた夕日で赤く染まっていた。
「行くぞ。アンヌを助けたいんだろ」
アンヌ。その名前に、ミカエルはぐっと唇を噛み締める。恐怖と涙を一緒くたに飲み込み、差し伸べられた手を掴み取った。


村の外れの森の奥に、寂れた教会がある。少年が生まれるよりも遥か昔からそこにひっそりとそびえ、現在は廃墟となっているが、かつては村一番の大聖堂だったそうだ。
どれだけ立派な教会といえど、治めるものが居なければ何の意味もない。取り壊して新しい建物を建てればいいのに――。ミカエルはずっとそう思っていた。
興味本位で近づく者が現れぬようにと教会へと続く林道の入り口に札を立て塞いでいるくせに、村の大人達はみな示し合わせたようにその話題を嫌った。まるでそこに教会など存在しないとでも言うように無視を決め込み、決して口にしようとはしない。
肝試しと称して立て札を越えようとする者もいたが、幼い頃から「決して近づいてはいけない」と刷り込まれ続けたせいか、実際にその先へと進んだ者はいないそうだ。村の禁忌ともいえる森に、今まさに自分と幼馴染のマティアスは立っているのだ。未知の恐怖と謎が詰まった森のその奥に眠る「お化け教会」へと、足を踏み入れようとしている。興奮か、あるいは後悔と呼ばれる類のものだろうか。ミカエルは胸の内で震え続けるそれを抑えるように、胸元に下がるロザリオを握り締めた。
「……そんなもん、何の助けにもなりゃしないんだぜ」
親友の様子を目の端で捕らえたマティアスが、まっすぐに正面の闇を見据えたままぼそりと呟いた。まさか「知っているよ」と答えるわけにもいかず、ミカエルは曖昧に口ごもる。
まるで抑揚の感じられない声は、快活な少年に暗い影を落とす。ミカエルはふと考えた。彼は恨んでいるのだろうか。町の神父を、無力な大人達を――いや、違う。
「なーんてな!んな心配すんなって!いざとなったら、お前もアンヌもこの俺が守ってやるからよ」
白い歯をむき出して笑う顔は、よく見知ったマティアスの表情そのままだった。


マティアスの恋人は、半年ほど前に怪物の餌食となった。命こそ助かったものの、その時の後遺症から両の足を奪われたそうだ。直接の面識はなかったが、隣町からも求婚者がやってくるほどに美しく清廉な女性だと聞く。皮肉なことに、彼女は持ち前の美貌が仇となり、年端もいかぬ少女の血を好む吸血鬼の手にかかってしまった。その胸元には彼が贈った銀のロザリオが飾られていたそうだ。
マティアスが恨んでいるのは、おそらく自分自身なのだろう。恋人を救えなかった惨めな自分を、何よりも憎悪している。そして、今のミカエルにかつての自分を投影しているのだ。
今度こそ大切な人を守れるように――だからこそ、二人は今。村の掟を侵し、ここへやってきた。
進入禁止の札を越え、うっそうと木々の生い茂る林を抜け、寂れた墓地へ踏み入り――そうして、どれだけ歩き続けただろうか。ふと空を見上げると、夜空には先の尖った月が浮かんでいた。
「……ここだ」
わずかに強張った声が空気を震わせ、ミカエルは頭上へと向けていた視線を下ろした。
木々の隙間に顔を出した建物は、確かに廃墟と呼ぶに相応しい外観をしていた。長らく人が居つかなかったせいか、窓のガラスは割れ、壁の塗装はぼろぼろに剥がれている。青白い月の光に照らし出されたマリア像は、首から上が無くなっていた。
「う、噂どおり……不気味だね」
「ああ……」
ごくりと生唾を飲み込んだマティアスが、一歩、また一歩と慎重な足取りで建物へ近づいていく。その背中にぴったりと張り付くようにして、ミカエルも後に続いた。
「こんなところに、本当に人が居るのかな?」
見たところ、人が住んでいる気配は感じられない。ミカエルは慎重に辺りを見渡したが、獣の姿一匹も見当たらなかった。噂はやはり噂に過ぎなかったのか、と肩を落とす少年を横目に、マティアスが大きく一歩を踏み出した。
「とにかく、中に入ってみようぜ」
「えぇ?!」
情けない声を上げる幼馴染を尻目に、彼はずんずんと建物に向かっていく。こんな物寂しい場所に独り取り残されては適わないと、小走りに駆け出そうとしたミカエルの背後で、さわりと空気が揺らいだ。
風に靡いた木の葉がざわざわとかさついた音を立てるような――しかし、それは確かに人の笑い声だった。くすくすと鼻にかかった乾いた笑い声。
錆付いたブリキ仕掛けの人形のように、ミカエルはぎこちない動作で背後を振り返る。脂汗をびっしりとうかべた顔がようやく森へと向き直ると、真っ暗な闇の中に二つの赤い光が浮かび上がっていた。
小さな火の玉のような光――いや、目だ。こちらを見ている。真っ赤な目玉がふたつ、自分たちを睨み付けている。
「う、うわあああぁ!」
突如として上がった悲鳴に、木々の間で羽を休めていた鳥たちがいっせいに飛び立った。真っ赤な目の持ち主は音も無く地面の上を滑り、腰を抜かしたミカエルの前でぴたりと歩みを止める。
ほとんど気を失いかけた少年の脳裏に、最悪の事態が描き出された。吸血鬼、あるいは狼男だろうか。いや、狼男は満月に現れるという。ならば、やはり吸血鬼――。震える両手で胸元のロザリオを掴み、頭上高く掲げる。
ろくすっぽ覚えていない聖書の一節をつぎはぎして懸命に繰り返しながら、ミカエルは銀色の十字架を懸命に振り回した。
「おやおや、これは珍しいお客様だ」
想像していたよりもずっと細く柔らかな声に、少年は恐る恐る顔を上げた。
黒いマントに、白い肌。噂に伝聞する吸血鬼の特徴と同じ、美しい面立ち。だが、男はミカエルを取って食おうというつもりは無いらしく、地面の上で縮こまる少年の姿をしげしげと眺め下ろしているだけだった。
「ふぅん……君――」
薄く開いた薔薇色の唇がぽつりと何事かを呟いたが、そのささやかな声を聞き取ることは出来なかった。
「ミカエル!」
異変に気づいたマティアスがミカエルと男の間に割って入る。
「大丈夫か?」
「う、うん」
親友の安否を確認すると、マティアスは改めて男へと向き直った。
「何ですか、あんた。こんな所で何してるんですか」
「その台詞はそっくりそのまま、君たちにお返しするよ」
日の光を思わせる暖かな髪を眩しげに眺め、男はにこりと笑った。
深い深い夜の闇で切り取ったような、漆黒の髪。目元にまで掛かる前髪を男の白い指がさらりと掻き揚げると、そこには血色の瞳があった。
蝋で塗りたくられたような白い肌の中、一際目を引く鮮烈な赤。ミカエルが火の玉を連想するのも無理はない。色素の薄い赤眼は、月の光を受けて淡く光を放っているようにも見える。
「ここは一応私有地だよ?君たちの侵入を許可した覚えはないんだけどなぁ」
「……ということは、貴方がこの教会の所有者なんですか?」
「そうだね。まあ、ここに住んでる者の一人ではあるよ」
「一人……?」
「そう。君たちも噂にぐらい聞いたことがあるんじゃないかな?」
頭上にかかる三日月のように両の目を細め、男は心底楽しげに言った。
「吸血鬼殺しの神父の話をさ」







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