朧月夜-伍-
※軍人臨也×男娼静雄

「い、っつ――」
座敷に入るなり、綺麗に整えられていた布団の上に放り投げられ、したたか背を打ちつけた静雄は一瞬息を詰まらせた。その隙を見逃さないとばかりに、臨也はすかさず投げ出された身体の上に圧し掛かり静雄の身動きを封じる。
「離せ」
「嫌だよ。離したら逃げるだろう?」
細い手首を柔らかな布団の上に縫い付ければ、静雄は不快感を露にした声で低く呟いた。鋭く睨み付ける顔とは裏腹に、臨也の腕力に抵抗しうるだけの力を静雄は持ち合わせていない。少し力を込めて握れば容易く折れそうな酷く華奢な身体を見下ろし、臨也は何ともいえない気持ちになった。
「ねえ、どうしてそこまで嫌がるんだい?今回の話は君にとっても悪い条件じゃないはずだ」
「…………」
「そんなに俺の事が嫌い?」
先ほどの女将との会話を一部始終聞いていたのだろう。臨也はその目にありありと悲しげな色を浮かべ、じっと静雄の表情を伺った。
「お前はっ……」
静雄は自分を真摯に見つめる臨也の目線に耐え切れずに顔を逸らす。
「お前は、何で俺なんかの為にそこまですんだよ。俺の事が抱きてぇんなら、悪い事言わないから一夜毎に買ってくれ」
「…………」
「接吻なんかに拘ってないで、抱けばいいだろ。俺もそれなりに場数踏んでるし、天国連れてってやれるぜ?」
わざと挑発的な言葉を吐き続けるが、それでも静雄は臨也の顔を見ることができなかった。臨也の瞳を見てしまったら、心の奥に抱えている不安や期待を全てぶちまけてしまいそうになる。
もうこれ以上、自分を掻き乱さないでくれ。
言葉にこそ出さなかったが、静雄は祈るような気持ちで沈黙に耐えた。しん、と静まり返った空間には、窓の隙間から入り込む涼やかな虫の音だけが微かに空気を震わせている。


「シズちゃん」
力の抜けた静雄の両手を開放すると、臨也は静雄の頬に掌を添え半ば無理やり自分へと向き直らせた。至近距離で向き合うような形になるが、静雄はなおも目線だけは伏せたまま、がんとして臨也の顔を見ようとはしない。しかし、臨也はそんな静雄の様子などお構いなしとばかりに言葉を続けた。
「前にも言ったと思うけど、俺は君の身体だけが欲しいんじゃない」
「…………」
「ねえ、俺の目を見て」
臨也は子供を諭すように優しい声音で囁く。その声に促されるようにして、静雄はたっぷりと逡巡した後、伏せていた目線を目の前の臨也へと向けた。
真紅の瞳が自分を見据えている。ただひたすらに、真っ直ぐに。
「俺は、君の事が好きだよ」
「…………っ、」
臨也の言葉に静雄は思わず息を詰めた。
「俺はね、昔から他人にまったく興味が持てなかったんだ。上司も親も、友人と呼ばれる人間ですら、道端に咲いてる草花や庭に転がる石ころ程度にしか関心を持てなかった。当然、何をしても何を得ても自分の感情が動く事はほとんど無いに等しかった」
勿論、そんな自分の性質が酷く歪んでいるという自覚はあったけれど、と添えてから
臨也は静かな口調でなおも言葉を紡ぎ続ける。
「それでも生きていく上で特に問題はないし、自分はそういう人間なんだって諦めてた」
淡々と紡がれる言葉は、懺悔にも似ていた。
「けど、シズちゃんに出会って、俺の予想の範疇を超える反応をする君に最初は純粋に興味を抱いた。他人に興味を抱く自分にも驚いたし、どんどん新しい顔を見せる君と一緒にいると、楽しいとすら感じるようにもなった」
「…………」
「それが好意に変わるのに、さほど時間はかからなかったよ。あの日、……君の身体についた傷を見た時、正直……目の前が真っ暗になった」
するすると頬を撫でていた掌が首筋を通り、鎖骨を擽る。
「怒りと、嫉妬でね」
緩く肌の上を滑る指先は淡い水色に染め上げられた襦袢の襟元に潜り込み、胸元を割り開くように寛げた。あの夜臨也が目にした傷はそのほとんどが消え今では目を凝らして痕跡を探す事すら難しくなっている。
「シズちゃん。いや、……静雄。君を他の誰にも渡したくない」
夜の帳が落ち始めた薄暗い座敷の中、臨也の独白だけがただ淡々と降り注ぐ。窓から差し込む夕日が、臨也の目の前に曝された静雄の淡雪のように白い胸板をほんのり橙色に染めた。
静雄は臨也から吐き出される言葉の一つ一つに、複雑な思いで耳を傾け続けていた。
臨也の気持ちは、嬉しい。胸がいっぱいになって言葉にならない程に。
けれど、愛されるという事を知らない静雄にとって、臨也の言葉をすんなりと受け入れる事は不可能に近かった。嬉しいと感じる気持ちと同じぐらいの不安が、腹の底でどろどろと渦巻く。相反する二つの感情に、静雄は息苦しさすら感じた。
「だから、これは俺の我侭。君が気に病む必要はないよ」
「臨也、……俺は――」
不安気に揺れる静雄の目尻にちゅ、と口付けを落とし、そのままするりと耳元に唇を移動させると臨也は小さな声で呟く。
「今は答えなくていい」
「ん、……なん、で」
鼓膜を直に擽るような弱い刺激に静雄の肩が小さく跳ねた。
「シズちゃんの中に、まだ答えがないから」
「っ……ん、ぁッ!」
ほんのりと淡い桃色に色づいた耳たぶを唇で食み、舌で耳の穴の縁をなぞってやると、静雄からはっきりとした喘ぎ声が上がった。くちゅくちゅという濡れた音に鼓膜を通って脳髄が犯されているような気分に陥り、静雄はくらくらする頭で必死に臨也の言葉を理解しようと、彼の一言一句に耳を傾ける。
「いざ、……ふぁっ」
「時間はたっぷりあるんだから。ゆっくりでいいよ」
耳への愛撫を続けたまま、持て余していた手で胸の飾りを捏ねる。愛しいと言葉にする代わりとでもいうように身体の至る所に口付けを浴びせられ、静雄の身体の奥に淡い灯が灯る。無意識にそろりと伸ばした両腕を、そっと臨也の首に巻きつけた。
(信じて、いいんだろうか)
まだその答えは出ない。けれど、臨也ともっと一緒に居たい。この男をもっと知りたい。それだけは、静雄の胸の内に芽生えた確かな感情だった。
臨也の首に回していた手にぐっと力を込め、ぴったりと抱き合っていた体を強引に引き剥がす。
「……シズちゃん?」
訝しげに眉を寄せた臨也の顔をまともに見る事ができず、静雄は僅かに視線を反らせたまま、臨也の股間に手を伸ばした。
「今日は、……俺にもさせろよ」






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