朧月夜-肆-
※軍人臨也×男娼静雄

だん、だん、だん、と派手な音を立てて階段を下っていくと、玄関先にいた女将が怪訝な顔をした。
「おや、津軽。折原様のお相手はどうしたんだい」
「女将さん、その件でちょっと話があるんすけど……」
小首を傾げる女将を奥の間へ押し込め、静雄は座敷に膝を着いて頭を下げた。
「折原様との契約を破棄してもらえませんか」
「ええ?」
足元に平伏す静雄の姿を見て、女将は目を丸くした。
「何年かかっても、年季は必ず収めます。一晩に二人相手にしたっていい」
「ちょ、ちょっとお待ちよ。何でそんな無茶苦茶な……」
「あの人の相手は、俺……嫌なんす」
畳に擦り付けていた顔を持ち上げると、ぴんと背中を伸ばして座りなおす。戸惑いを隠せない様子の女将も、静雄の真正面に静々と腰を下ろした。
「良い値で買ってくれるし、手荒いこともしないし……良いお客様じゃないかい」
「嫌、……なんすよ」
硬く握った拳をぎゅう、と膝の上で握り締め、静雄は視線を落とした。


そう、自分はあの男が苦手だ。まっすぐに自分を見て、自分の中にズカズカ入り込んでくるあの男の事が苦手なのだ。いっそ、商売相手と軽んじられた方がどれだけ気が楽か。
ほかの客相手ならば、自分は金を出して買われたのだから、と何をされようと静雄自身も割り切る事ができる。しかし、あの男はそれをしようとしない。自分に会うためだけに高額な金を叩いて夜な夜な店に通っては、まるで友人同士のようなたわいもない会話に満足して静雄が眠った後には帰っていってしまう。
身体に刻まれた傷を見つけられたあの夜以降、臨也が率先して静雄と触れ合おうとする気配はなかった。そもそも、あの時ですら臨也は静雄を抱きはしなかったのだ。自分一人が痴態を晒した挙句イかされてしまったという事実に若干の憂鬱さは覚えたものの、一夜に何度も挿入され、中に出された精液で体調を崩すよりはよほどましだと自分を納得させた。
最初こそ何てぼろい商売だと静雄も喜んでいたが、徐々にそれは違和感に変わっていった。
(これ以上は、駄目だ)
臨也が自分を見る目がどこまでも優しくて、その目を見ていると勘違いしそうになる自分が怖かった。

静雄は生まれてから今まで、その見た目のせいで散々な人生を送っている。幼かった彼自身にも、自分が周囲から煙たがられているという事実だけはおぼろげに認識できており、年を重ねていくうちに、その理由も容易に理解することができた。
記憶にも残らない母親が遊女であったということ。顔も名前も知らない父親がどこぞの国の異人であるということ。そして、二人から残された人と違う髪の色、目の色。
周囲の人間は誰もかれもが静雄を異端なものとして扱い、何もしていない静雄を遠巻きに眺めては影でひそひそと何やら囁いていた。食べるものに困り、誰かに縋ってみても縋りついた手は弾き返されるばかり。
「化け物」「物の怪」と呼ばれ笑われた事だって数え切れないほどある。
ああ、化け物だから、親に捨てられて一人ぼっちになったのか。
化け物の俺は人に愛されることはないのだ。
幼い静雄はいつしかそう思い込むようになっていた。自分が誰かに愛されることなどないのだと。
その想いは、大人になった静雄の根底に根強く残っていた。一夜の春を売る仕事を始め、その想いはいっそう強くなる。
自分は所詮、いくばくかの金と引き換えに身体を求められるだけの存在だ。そう割切ってしまえば、不思議と気持ちは楽になった。だからこそ、折原臨也という存在は静雄の中で畏怖の対象となった。
勘違いしてしまいそうになる。
こんな自分でも、愛されることができるのではないか。臨也なら自分を受け入れてくれるのではないか、と。同時に愕然とした。そんな甘い空想に自分が酔い始めている事に。
(だからこそ、困るんだ)
臨也の気遣いは嬉しいし、彼と過ごせる時間が増えると知ったときは思わず頬が綻んだ。しかし、これが臨也のただの気まぐれだったら?一時の気の迷いや暇潰しだったら?そう考えると足元が崩れていくような不安に襲われるのだ。それに加え、臨也の身を危険に曝すかもしれないという事実がいっそう静雄を苦しめた。静雄が臨也に告げた言葉に偽りはなく、臨也の上席にあたるであろう男の顔も何人かなじみとして見知っている。その中には自分に異様な執着を見せる男も混じっているのだ。
「お願いします。……俺、何でもしますから」
畳にこすり付けるようにして再び頭を下げる。


「そうは言っても、ねえ」
「女将さ……」
「随分と嫌われちゃったみたいだね」
音も無く静雄の背後の障子が開いたかと思うと、聞きなれた声が静雄の頭上から降ってきた。思わずびくりと跳ね上がった肩を押さえ込むように、握り締めた拳に一層力を込めて声の主を振り返る。
「臨也……」
「無駄だよシズちゃん。契約書は俺が持ってるし」
「う、わっ!」
唐突に身体を抱え上げられ、米俵よろしく臨也の肩に担ぎあげられた。静雄は長い手足をバタつかせて必死に抵抗を試みるも、この細い体のどこにそんな力があるのかと思うほどがっちりと抑えられ、逃れることはできなかった。
「……てことで、女将さん。津軽は借りていきますね」
「おいっ!降ろせ馬鹿!!」
「はいはい、話は座敷で聞いてあげるから」
臨也の耳元で喚いてみるが、彼は涼しい顔をしたままずんずん廊下を進んでいく。時刻が夕刻だということもあり、ぽつぽつと入店している他の客は何事かと遠巻きに二人を眺めていた。
「手前と話す事なんざねえよ!!」
「君になくても俺にはあるのー」
静雄はぎゅっと唇をかみ締める。
これ以上俺にかまうな、そう怒鳴りつけてやりたいのに、喉元までせり上がった言葉は音にならずに消えた。








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