幻夜
※今さらな七夕話
※妊娠・出産を伺わせる表現がありますので苦手な方はご注意ください
さーさーのーはーさーらさら……


楽しげな歌声が、延々と同じフレーズを繰り返している。そこの部分しか知らないのだろうが、まるで壊れたスピーカーのようだ。この時期におなじみの有名な童謡。静雄もフルコーラス歌える自信はない。
小さくうなり声を上げて身体を起こすと、それを合図とばかりに歌声はぴたりと止んだ。起きるのを待っていたのか、それとも起こそうという意図のもとの熱唱なのかは分からないが、寝覚めは思ったよりも悪くない。
ひんやりと冷たい革のソファに手をついて、もぞもぞと体勢を入れ替える。背もたれに身体を預けなおし、フローリングに無造作に転がったスリッパにつま先を突っ込んだ。
「こんなとこで寝てたら風邪ひいちゃうよ」
「あー……わりぃ、ついうとうとしちまって」
「もぉー、しかたないなぁ!」
父親の口調を真似るように言うと、サイケは甘えるように静雄の膝に飛び掛ってきた。
「これ、お前がかけてくれたのか?」
膝の上でくしゃくしゃに丸まったブランケットは、サイケが赤ん坊のころから愛用しているものだ。薄いクリーム色の生地にピンクのストライプ。すっかり色褪せてお世辞にも見栄えがいいとは言えないが、サイケは季節問わずにこれがないと寝られない。臨也が柔軟剤にこだわるせいかやたらと手触が良く、鼻先をうずめるとあわい石鹸の香りが鼻腔をかすめた。
来年から小学校に上がる息子は、ランドセルにもこいつを詰め込むつもりらしい。丁寧に畳んで手渡してやると、大事そうに受け取ったそれに顔を埋めた。
「そうだよー。だってしずお、くしゅん、ってしてたから」
「そっか。ありがとうな」
素直に礼をのべ、さらさらの黒髪を手のひらでかき混ぜた。父親譲りの漆黒の髪だが、この手触りは自分の毛質だな、と静雄は思う。
サイケが生まれたばかりの頃は、こんな風に気安く頭をなでてやることなどできなかった。小ぶりな水風船のようなそれは、指先がほんの少し触れただけであっさりと破裂してしまいそうに思えたし、第一、赤ん坊の扱い方などさっぱり分からなかった。
見た目こそ臨也に瓜二つのサイケだったが、幸か不幸か身体のほうは静雄に似ていた。傷はすぐにふさがってしまうし、自分の身の丈もあるほどのおもちゃ箱は片手でほいほいと軽々運んでいく。
かつての自分がそうであったように、サイケがその力に苦しむのでは――静雄はそんな風に悩みもしたが、臨也は「大丈夫だよ」とあっけらかんとして取り合わなかった。そのうち、静雄も悩むことをやめた。いや、正確にはばかばかしくなったのだ。当のサイケが「かっこいい」といってはしゃいでいるし、当面は深く考えないようにしようと決めた。
「はい、しずおにもあげるね」
ガラステーブルの上に散らばっている色とりどりの紙の中から、静雄の髪の色に合わせたであろう黄色の紙を選び取り、サイケは得意気に手渡した。
均等な大きさにカットされ、はしっこには小さな穴が開いている。そこから通した赤い糸が、空調に煽られて頼りなくゆれた。
「……何だこれ」
「たんざくっていうんだよ」
お願い事を書いたら、あそこにつけてね。そういうと、サイケは部屋の隅に立てかけられた笹飾りを指差した。
どうやら保育園の行事に感化されてのことらしいが、それにしても立派な笹だ。さも当然の権利とばかりに膝の上によじ登ってきたサイケを抱え上げ、立ち上がる。壁際にまで移動すると、静雄は細く尖った葉にそっと触れてみた。ビニール製の作り物ではなく、どうやら本物の笹らしい。無機質な印象のコンクリート壁と、青々とした葉のギャップがなんともいえずシュールだった。
「たかいところにつけると、おねがいが叶いやすいんだって」
「へえ」
「ぼく、クラスでにばんめにおっきいから、いちばん上につけたんだよ」
言うと、サイケは背筋をピンと伸ばしてみせた。一番目の子はどうしたのかと尋ねると、サイケは「どたちんは、そういうのきょうみないんだって」と笑った。
なるほど、門田の息子か。保育園で再開した旧友の子とサイケは、組み変えで今年の春から同じクラスに通っている。臨也がふざけ半分に門田を「ドタチン」と呼ぶものだから、サイケも当然のようにそれに倣った。それにしても、親のせいでふざけたあだ名を世襲させられるなんて、なかなかに不憫だ。
「しずおー、もっと高いとこにあげてー」
「……っと、こら。暴れんな」
ぐらりと傾いた半身を慌てて抱き留め、静雄はほっと息をついた。両腕にかかる重みは、数ヶ月前よりさらにずっしりと重たくなった。仕事で根をつめた後の臨也が、よく腰にくるとぼやいているが、無理はないのかもしれない。
さーさーのーはーさーらさら……
サイケは短い腕を精一杯腕を伸ばし、赤い紐を通した短冊を頭上に掲げた。もたもたと結び目を作ると、まるで大仕事を成し遂げたとばかりに額をぬぐってみせる。その芝居染みた仕草は臨也似かな、と笑い、サイケの身体をフローリングに降ろした。
はらりと足元に落ちた山吹色の紙切れを拾い上げ、自らの目の前に掲げてみる。一呼吸置いて、今しがた息子が結びつけたばかりの短冊の横に結わいつけた。目にも鮮やかなショッキングピンクとイエローの紙切れを眺め、満足げに頷く。

「サイケー、そろそろシズちゃん起こし――って、あれ?起きてたんだ」
リビングの入り口にひょこりと顔を出した臨也は、笹飾りの前に並んで立つ二人の背中に向けて意外そうな声を上げた。
「中々戻ってこないから、てっきりシズちゃんと一緒に寝ちゃってるのかと思ってたよ」
気の抜けた声に誘われるようにして振り向くと、スーツの上着を脱ぎ、代わりに愛用の黒いエプロンを纏った男の姿がそこにあった。右手に握られたままの菜箸が、妙に様になっている。
「これ、いざやくんの分ね!」
どこから取り出したのか、サイケは端のよれた紙切れを臨也に向けて掲げてみせる。臨也に割り振られたたんざくは、彼の瞳の色を彷彿とさせる華やかな朱色であった。臨也は紅葉の手から受取った紙切れを大事そうにエプロンのポケットにしまい、「ありがとう」と笑う。
この男がこんな風に人間味のある暖かな表情を浮かべることが出来るだなんて、かつての静雄は知りもしなかった。敵対していた頃は「何か裏があってのことだろう」と邪推をしたし、恋人として接するようになってから向けられた笑顔は、むず痒く感じられて仕方がなかったものだ。これが自然と受け入れられるようになったのは、いつの頃からだろう。
あまりにも長く平穏に浸かりすぎたおかげか、静雄の記憶はふやふやにふやけてしまって、もう思い出すことは出来そうにもない。
「短冊もいいけど、まずは夕飯を食べようか。その間に、俺も願い事を考えておくよ」
子犬のように足元にじゃれ付く息子の身体を頭上高く抱き上げ、臨也はくるりと一回りした。甲高い笑い声を上げるサイケの身体をフローリングに下ろし、華奢な肩をそっと押す。
「ちゃんと手を洗ってくるんだよ」
「はぁーい」
どたどたと足音を立てて洗面所に駆け込んでいく息子の背中を見送り、臨也はやれやれと肩をすくめてみせた。
「お前、今日は外で食ってくるっつってなかったか?」
外で打ち合わせがあると言い、臨也は今日は早朝から慣れないスーツに袖を通して仕事に出かけていった。静雄の記憶が確かなら、夜はそのまま会食になるだろうから、夕飯はいらないとも。
臨也と静雄は基本的に共働きなので、サイケの迎えや夕食の準備は交互にこなしている。静雄に残業が発生すればフリーランスである程度自由に動ける臨也が引き受けるし、稀にではあるがその逆もまた然りだ。
今日は忙しく飛び回る旦那に代わり、静雄が一切の家事を引き受けることで話がまとまっていた。上司を拝み倒して早めに切り上げさせてもらい、帰り道の途中で夕食の買い物を済ませた。そのままの足で保育園にサイケを迎えにいき、夕暮れの町並みを二人でぶらぶらと歩いた。
家に帰りついたのは17時を少し回ったころで、夕食の準備には早いなぁ、などと考えているうちにうっかり眠り込んでしまっていたらしい。
「仕事が思ってたより早く片付いてね」
「そっか。悪かったな、今日は俺が当番なのによ」
「良いよ。簡単なものしか作ってないし」
几帳面に折り目をつけられたワイシャツの袖を元に戻し、臨也は柔らかく笑んだ。こいつも、変わったよな――誰に言うでもなく、静雄は真正面から整った面立ちを眺めた。
今の臨也からは、悪意を煮詰めたような偽りの匂いはしない。当人いわく「『一番隠しておきたかったもの』が表に出てしまったのだから、今更隠すものなんてない」とのことだが、静雄には彼が何を言わんとしているのかがいまいち分からなかった。
思えば、あの発言以降だろうか。臨也と静雄の関係が劇的に変化したのも、なんの冗談か男同士である自分たちの間に子供が生まれ、生活の基盤ががらりと様変わりしたのも。
「それにシズちゃん、ここのところ体調悪そうだったじゃない」
「んー」
頬をくすぐる指先に誘われるまま、瞼を下ろして顔を寄せた。マシュマロのように柔らかな感触が一瞬だけ肌にふれ、すぐに離れていく。「唇はまた夜にね」などと悪戯っぽく囁き、臨也は静雄の背中をそっと抱きこんだ。






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