セクシャルファクター
※眼鏡臨也
その日、久しぶりに少し大きめの商談を決めた俺は、足取りも軽やかに池袋の町を歩いていた。
最近は良い意味でも悪い意味でも名前が売れてしまい、新規顧客を捕まえることが難しくなった。粟楠会経由でひと癖もふた癖もあるきな臭い連中からの依頼にはことかかないが、そういった相手の仕事はそれなりにリスキーなのだ。
裏社会のドブ臭い人間模様を垣間見ることができるといった点において、俺にとっては実に興味深い世界ではあるが、仕事と捉えるならばいかんせん割りに合わない。
その点、今回の取引相手は文句無しの優良顧客と言える(この場合の“優良”とは、もちろん俺にとって“都合が良い”ということである)極道のフロント会社とは違う、そこそこ大手のIT企業だ。依頼内容もいたってシンプルに、自社サーバーから顧客情報を漏洩させている人物をを突き止めて欲しい、とのことだった。
そういった目に見えない“情報”を切り売りする立場の俺にクラッカーの燻りだしを依頼するのだから、何かしら後ろ暗いところがあるのかもしれない。が、それは俺には関係のないことだ。
とりあえず、当面の諸費用と依頼完遂後の成功報酬の額面だけで小さくスキップができる程度には大口の商談といえた。


「……まるでコスプレだ」
シャツの襟ぐりに人差し指を差込み、力任せにボタンを緩める。ショーウインドウに映りこんだ自らの格好に、思わず苦笑いを浮かべた。こうして見ると、街を行くビジネスマンと大差ない。
ネクタイはしばらく仕舞い込んでいたため、かすかに防腐剤の匂いがする。シャツは下ろしたて、スーツは恐らくこの仕事を始めたころに一、二度着たまま、クローゼットの肥しになっていたものだ。光沢のあるグレーの生地は日の光を受けて淡いブルーに見える。
こんな成りをしているのには勿論それなりの訳がある。
『……ただでさえ若造と下に見られることが多いのだから、服装には気を使ったほうが良いんじゃないのかしら』
いつも通りラフな服装で事務所を出ようとした俺をの出足を、波江の何気ない一言が挫いた。
言うだけ言い捨てると、まるで何事もなかったかのようにパソコンのモニターに向き直る女の横顔を前に、俺は一人思案した。今回のように大手企業を相手取るときは、確かに有効な戦法かもしれない。
ものは試し、と深く考えずに愛用のコートを脱ぎ、こうして慣れないビジネススーツに身を包んで現在に至るというわけだ。
先方へ礼を払うという意味合いと共に、商談を円滑に進めるため“邪魔者”の目から逃れたい、という思惑もあった。池袋の町で仕事がやりにくいのは、ひとえに平和島静雄の存在が大きい。俺の匂いをかぎつけては暴れまわるあの男のせいで、今までいくつもの仕事を棒に振ってきたのだから。


「おかげ様で首尾は上場、っとね」
ピカピカに磨かれたガラスを覗き込み、シルバーのブリッジを人差し指で押し上げた。眼鏡は身なりに合わせた冗談のようなものだったのだが、顔の印象を見事に変えてくれている。服装は、個人識別の記号の一つだ。折原臨也を構築していたパーツの一部でもある黒いジャケットとパンツを脱いだことで、“俺”という一人の人間は町の一部に溶け込んだ。
巷で噂の首無しライダー、来神学園の三人組み、ドタチンと愉快な仲間たち。サンシャイン通りですれ違い、交差点で隣り合わせたが、誰一人として俺を折原臨也とは認識していない様子だった。
ここまでうまく化けられるのならば、池袋での取引には今後スーツで挑もうか――ぼんやりとそんなことを考えながら足を踏み出そうとした俺の目の前を、真っ赤な塊が豪速で過ぎっていく。傍らのショーウィンドウの強化ガラスをぶちぬき、店の中から甲高い悲鳴が上がる。綺麗に穴の開いたガラスを覗き込むと、郵便ポストがレジカウンターに堂々と鎮座していた。
「いぃ〜ざ〜やぁ〜くーん……池袋に何の用だ、あぁ?」
「シズちゃん……」
まったく、本当に鼻が利くことで。
咥えていた煙草を丁寧な手つきで携帯灰皿に押し込めたシズちゃんが、まだ真新しい進入禁止の道路標識に手をかける。その顔に凶悪の二文字がぴったりな笑みを浮かべながら。俺は皮肉もそこそこに、革靴の底を鳴らして駆け出した。
アスファルトの表面がはがれる音と周囲の悲鳴を背後に受けながら、大通りを突っ切って裏路地へと飛び込んだ。廃ビルのフェンスを飛び越えることが出来れば逃げ道も増えるのだが、スーツ姿では思うように身動きが取れない。むやみに標識を振り回すことができないよう、できるだけ細い路地を選んで走った。
「……っと、」
ルートが制限されている以上、進む先は慎重に選ぶべきだったのだが、背後から猛獣が迫ってきている状況では冷静な判断もままならない。
雑居ビル同士の隙間にもぐりこんで、しまった、と足を止めた。この先は確か行き止まりのはずだ。引き返すべきかと背後を振り返ったところで、上着の襟ぐりを引っつかまれた。弾け飛んだボタンがカラコロと小気味の良い音をたてて地面の上を跳ねる。
「ちっ」
スーツの内ポケットに忍ばせていたナイフを手に取り、引き抜くと同時に刃を起こして切りつける。振り返る瞬間の反動と体重とを一緒くたに腕を切り落とすぐらいの腹づもりで振るうが、渾身の一閃も化け物相手では分が悪い。鈍く光るナイフの刃先は、シャツの袖口と皮膚を軽く裂いてあっさりとその掌に受け止められてしまった。
灰色のアスファルトに数的滴り落ちた血に、シズちゃんの眉間に刻まれた皺がほんの少しだけ深くなる。
「君は俺の仕事の邪魔をしないと気がすまないのかな?」
ナイフの先端にこびりついた血を振り払い、険しい表情を浮かべた金髪の男へと向けなおす。
「今日は君にも池袋の街にも手出しするつもりなんか無かったのに、そうやって自分から災いを引き寄せて暴れまわって楽しい?」
「…………」
小馬鹿にしたような言い回しにも、反論はない。薄暗い空間で、サングラス越しの目線を伺うことは難しいが。どことなく平素とは様子が違うように感じられて、思わず小首をかしげた。
「シズちゃ――……」
俺が彼の名前を口にするのと、相手が俺の身体を突き飛ばすのとはほぼ同時だった。胸元をどん、と押され、肺が押しつぶされるような衝撃と共に背後へと倒れ込む。幸か不幸か、ゴミを集積するための薄汚れたポリバケツがクッション材となり、地面に直接身体を叩きつけられることだけは免れた。
ザラついたコンクリートの壁に背中を預けたまま、嫌味ったらしくすらりと伸びた足を睨み上げる。
足元に転がったナイフを靴の先で蹴り飛ばすと、シズちゃんはゆっくりとした足取りで歩み寄ってくる。トレードマークのサングラスを外して胸元に仕舞い込み、悠然と俺を見下ろすその顔には、何の表情も浮かんではいなかった。
先ほど感じた違和感が胸元に広がるのを感じながら、俺は本能的に腰を浮かせ、胸ポケットにストックしてあるナイフを取り出そうと右手を差し入れた。
「……って、離せよ馬鹿力」
無骨な指が、手首に食い込む。存外にすばやい動きで俺の腕をつかみ上げたシズちゃんは、だんまりを決め込んだまま背後の壁に俺の右手を縫いとめてしまった。
逃げ場を失った俺は、仕方なくその場に腰を落とす。至近距離で、しかも丸腰。力で適うはずもなく、状況は最悪。それでも、口元に浮かべた薄ら笑みはそのままに、天敵の男の顔をまっすぐに睨み上げた。
怒りか、はたまた愉悦か。俺をその手にかける瞬間、この男がどんな顔をするのか――こんな局面においても自衛手段より好奇心が勝る自分の悪癖を客観的に傍観していると、鼻っ柱にさらりとした頼りないものが触れた。
「……ん、」
痛んだ金髪の毛先から、煙草の残り香が薫る。キスされたのだと悟ったときには、唇の隙間から進入した舌が口腔内を好き勝手に荒らしまわっていた。
「ちょっ、と……は、シズちゃ、……ッんん」
空いているもう片方の手で薄い胸元を押しのけようともがくが、体格差に加えて体勢が悪いためびくともしない。呼吸の合間に切れ切れに漏らした抗議の声に、シズちゃんがはあからさまに不服そうな顔をした。
「は……、なに、これ。どういうつもり?」
唾液に濡れた唇を舐めあげる赤い舌がやけに艶っぽい。
薄い唇は問いに対する答えの変わりに熱っぽい吐息をひとつ吐き出し、再度俺の唇を塞ぎにかかる。先ほどのような荒々しいそれと違い、何かをねだるように時折唇を甘噛みする素振りすらみせた。
「シズちゃん」
湿り気を帯びた吐息に乗せその名を呼ぶと、伏せられた瞼が小さく震えた。
唇が触れ合うすれすれの距離で視線が交わり――俺はようやく理解した。シズちゃんが、どうやら俺に欲情しているらしいということに。






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